てつさらです。

言うまでもないことですが、ものごとを主観的に見るか、客観的に見るかによって、その見え方は大きく変わります。

例えば、次のようなケースを考えてみましょう。

現在、日本はドジョウを中国から輸入しているのだそうです。
ところが、中国から日本に空輸される間に80%のドジョウは死んでしまいます。あまりにも水槽が揺れてしまい生存できなくなるというわけです。
しかしこれでは原価が高くなるばかりです。そこで、考えられたのがドジョウの天敵のナマズを水槽の中に一緒に入れることだったそうです。
ナマズをドジョウの水槽に入れると、ナマズは中国から日本に飛行機が向かう間に、ドジョウを食べまくります。ナマズがドジョウを食べる数は水槽全体の20%にも及ぶそうです。
しかし、ナマズを入れた水槽では、一匹のドジョウも死なない。つまり、ナマズに食べられたドジョウの数だけが損失であり、輸送効率は20%から80%と4倍になったという話です。
(岡本史郎著『稼ぐ超思考法』より引用)

もちろん、貿易業者にとっては、ナマズを入れる選択をすることが理に適っています。

しかし、ドジョウの身になったらどうでしょうか?水槽が揺れて衰弱死することも嫌でしょうが、ナマズに追いかけられてかみ殺される恐怖も同様に嫌でしょう。ドジョウによっては、ナマズに食い殺されるより、衰弱死の方を選びたいという者も出てくるでしょうね。

また、映画『気狂いピエロ』に、次のようなシーンがあります。

久しぶりの再会を果たしたアンナ・カリーナとJ=P・ベルモンドが車の中で話しているのですが、カーラジオからは次のようなニュースが流れてきます。「米軍は大勢犠牲者を出しています。ベトコンも115名が戦死…」。それを耳にして、アンナ・カリーナは次こう言います。

「その他大勢」って悲しいわ。「ベトコン115名」じゃ何にも分からないわ。それぞれ人生があったはずなのに。妻や子どもがいたのか。お芝居より映画が好きか。何も分からない。115人死んだってだけ。
(字幕・関美冬)

ニュースではただ「115名戦死」という客観的な事実だけが伝えられます。しかし、その戦死者一人一人の立場に立てば、それぞれにかけがえのない人生があります。「115名戦死」と一括りにされるなんてとんでもない、と思うことでしょうね。

それから、以前のブログでも取り上げた、三浦俊彦氏の『戦争論理学』という本で論じられている、ヒロシマ・ナガサキの原爆に関すること。

三浦氏は、感情的な反発をも冷静、かつ合理的に批判しつつ、最終的に、「原爆投下は正しかった」という肯定論に行き着いています。

もちろん、論理的、合理的に考えれば、この結論は正しいのかもしれません。しかし、原爆投下によって悲惨な死を強いられた数十万の犠牲者たちの立場に立ってみれば、口が裂けてもそんなことを主張することはできないでしょう。

この主観と客観との関係を、私たちはどう考えるべきなのでしょうか?両者は永遠に対立したままなのでしょうか?

このことについては、別の機会にじっくり考えてみたいと思います。

以上、てつさらがさらっと書きました。