てつさらです。

前回の投稿の続きです。

主観と客観の対立を乗り越える方法はあるのでしょうか。

その一つの方法が、世阿弥の説いた「目前心後」あるいは「離見の見」というものでしょう。

目前心後」「離見の見」は、世阿弥が『花鏡』という本の中で述べた言葉だそうです。

また舞に、目前心後といふ事あり。

「目を前に見て、心を後ろに置け」となり。

見所より見る所の風姿は、我が離見なり。

しかればわが眼の見るところは、我見なり。

離見の見にはあらず。

離見の見にて見る所は、すなはち見所同心の見なり。

その時は、我が姿を見得するなり。

このように、自分の眼は前を見ていても、心は自分の背後に置かれている状態が「目前心後」です。心が自分の体から離脱(離見)し、自分の背後にまで後退して、そこから自分自身の背後を眺めている、そういう境地です。

これはまさに、主観と客観を融合させる試みだと言えるでしょう。

世阿弥はさらに、死後の世界から、この世の世界を眺める眼差しも持っていました。

もしそうであるなら、世阿弥能は全体として、この世この生(Hiersein)の至高性を知らぬまま失命した精神が、生前とはことなった<醒めた目>を持つ死の側からHierseinを覗き見ることで、その至高性に覚醒し離脱する、そんな、転身劇だということになる。 (中略)

その否定精神が、今度は、他界から(死の側から)じぶんの生涯、じぶんが生きた現世をふりかえりみなおすとき、生存中には汚濁・無常・虚妄と見えた同じHierseinが、とほうもない奇跡の弾け飛ぶ時空の開演だと痛感され、もって「存在肯定」の位相へ転身し、成仏する。これが世阿弥能の基本構造だと解釈できる。

(古東哲明『他界からのまなざし』より引用)

世阿弥は、死の世界、他界をいったん経由し、その死の世界からこの世界を見つめなおすとき、この世、この世界のとほうもない稀有さ、そのかけがえのなさが発見できるというのです。

主観と客観の対立が最も鮮明に出るのは、死についてではないでしょうか。

客観的に見れば、死は誰にでも訪れる必然です。しかし、主観的に死を経験することは誰にもできません。死は無限の彼方にあります。

その対立を、世阿弥の能は、死後の世界からこの世界を見つめなおすという方法で、乗り越えようとしたのかもしれません。

以上、てつさらがさらっと書きました。