てつさらです。

前回の投稿では、主体と客体との区別の消失を安易に主張する一部の仏教的な態度に対しての疑問について書きました。

この、自己と他なるものとの境界をまたぐことに関しては、デリダのメルロ=ポンティ批判が参考になるかもしれません。

デリダは、その著書『触覚』において、他者への到達不可能性と絶対的な分離を説くフッサールへの忠実さを標榜しつつ、そのフッサールに不忠実なメルロ=ポンティを次のように批判しています。

メルロ=ポンティは、フッサールの扱った「触れながら触れられるもの」の二重統握の経験、すなわち「私の右手が私の左手に触れるとき」「触れられている手が触れる手になる」という「関係の逆転」から「受肉」の思想に至るのだが、デリダによって厳しく批判されるのは、メルロ=ポンティが他者への直接的到達を語り、「肉」を自他未分化の次元に位置付けようとする点である。
(中略)
デリダは、フッサールが他者には根源的に到達しえないことを承認したことを称賛する。それゆえ、自他未分化の「肉」によって他人の身体と私の身体を混同し、視覚と触覚を混同するメルロ=ポンティに対してフッサールに忠実な批判を加えている。他者に根源的に到達しうるとし、何らかの「自他未分化」な次元を根源的なものとみなす種類の言説を、デリダは他者の他性を自己固有化(我有化)するものとして厳しく批判するのである。
(中央公論新社『哲学の歴史・第12巻』加藤恵介「Ⅻ デリダ」より)

私も、このデリダのメルロ=ポンティ批判に賛成です。

そもそも「私」という概念自体、他者との絶対的な境界の存在を前提に作られているものです。それを乗り越えたと称した瞬間に、私という概念それ自体が、全く意味を持たないものになってしまうのではないでしょうか。私と他者との境界を絶対的なものと見ずに、容易に乗り越え可能だと想定するのは余りにも安易な考えだと思います。

これは、前回の投稿で言及した、仏教的な主体と客体との区分の消失の問題でも同様です。

そうではなくて、私と他者との絶対的な境界を前提としながらも、いかにその両者の通約可能性を探っていくか、その不可能なことへの挑戦の姿勢を忘れ去るべきではないと思うのです。

以上、てつさらがさらっと書きました。