てつさらです。

先日、『ホンマでっか!?TV』という番組を見ていたら(……って、なんか最近テレビばっかり見ているなぁ)、評論家の武田邦彦氏が次のようなことを言っていました。

人間の寿命というのは短すぎて、統計的に見て幸不幸が偏る可能性がある……云々

私はそれを聞いて、なるほどなぁと思いました。人間の幸不幸というのは、偶然によって支配される要素が強いと思います。(確率や統計の考えに従えば、)十分に長い時間をとれば、どんな人もほぼ平等に幸せになったり不幸になったりするでしょう。しかし、人間の人生というのは、そういう平均的な確率に落ち着くには短すぎるので、幸せに偏ったまま死ぬ人がいる一方、不幸に偏ったまま死ぬ人も出てくる、というのです。(ちょうどさいころを何十万回も振り続ければ、どの目もほぼ6分の1の確率に近づくけれど、少ない回数の場合、同じ目が出続けることもありうるように……)

この考えが正しいかどうかは別にして、確かに、確率や統計の考えというのは、ある程度の時間幅、あるいはある一定数以上の数がまとまって、はじめて意味を持つものですよね。

保険会社が事業として成立するのも、ある程度まとまった数の人たちを比較的長期にわたって相手にしているからです。まとまった人数に対して、例えばその中のおよそ何人の人が肺がんで死ぬかを予想することは可能ですが、ある特定の人についてそれを予想することは非常に困難でしょう。

つまり、ある人を個の存在として見るか、集団の中の一人として見るかによって、全く違った様相が浮かびあがるのです。

また、以前のブログにも書きましたが、偉大な人物が生まれる可能性についても、確率や統計の考え方で捉えるか否かで、ものごとの見え方が全く変わってきます。

例えば、ロジャー・マリスという大リーグの選手は、1961年に、それまでベーブ・ルースが34年間保持してきた年間最多本塁打記録を破り、61本のホームランを放った選手です。年間61本というこの記録を、マリスという超一流とは言いがたい選手が記録したことについては、レナード・ムロディナウの『たまたま』という本で次のように書かれています。

なぜかを理解するためにより興味深い質問をしてみよう。標準のマリスの才能を備えた「全」選手と、ルースが記録を打ち立てた年から薬物使用のためにホームランがずっと一般的になった「ステロイド時代」までの「全」七〇年間を考えてみる。その場合、ある時代のある選手が単なる偶然でルースの記録に並ぶか破るかした確率はどれぐらいだろうか?そして、マリスがたまたまその幸運で、異常なシーズンの享受者だったと考えることは理に適っていないだろうか?
歴史を調べるとわかることだが、その七〇年という期間に、才能も機会も一九六一年の標準のマリスのそれに匹敵するような選手は、三年ごとにおよそ一人の割合で存在した。そしてそれらをすべて加えれば、それらの選手のうちの一人が、偶然だけで、ルースの記録に並ぶか破るかした確率は五〇パーセントを少し上回る。
言い換えると、七〇年という期間全体で考えるなら、年間四〇本塁打ぐらいが相当という選手に対して六〇本以上のランダムな急上昇は予期されることなのだ。そしてもちろん、それが誰であろうとその「幸運な」人間を、われわれが神のように崇めたり悪口を言ったり―そして飽くことなく分析したり―することも、予期されることではある。
(レナード・ムロディナウ『たまたま』より引用)

つまり、マリスの記録は、彼が優れた才能を持っていたからというより、確率的に「たまたま」起こったことであったというのです。

さらに考えれば、ベーブ・ルースという偉大な選手すら、もしかしたら偶然の産物として誕生したのかもしれません。(今の時代に、ベーブ・ルースが生きていたとして、当時ほど活躍できるでしょうか?)

歴史上の偉人を見るとき、私たちはその人個人の偉大さだけについ目を向けがちです。しかし、もしかしたら、それは確率的に「たまたま」起こったことにすぎないのかもしれません。(ちょうど、誰かに宝くじが当たるように)ナポレオンやアインシュタインは、たまたま歴史上の偉人という籤に当たったとも言えます。

ダーウィンは、進化論に関して、確率的、統計的視点で自然界を捉えたと言えます。彼の『種の起源』の考えに従うと、自然界というのは、どうやら確率的な原理が支配する世界のようなのです。自然界では、たくさんの個体変異があり、それらが大量にばらまかれ、その中でたまたま環境に合う性質の個体が生き残ります。そこには何ら意図的な目的や努力など存在しません。つまり自然界は多品種の大量生産、大量死滅の世界なのです。私たちが今目にしている世界はたまたまの世界であり、その裏には、環境に生き残れなかった無数の種の屍が横たわっていると言えます。

このように、確率や統計の考えに従ってものごとを考えることで、通常とは別の視点でものごとを見ることが可能になります。

このことは、以前の記事で書いた、主観と客観の対立を乗り越えるということとも深い関連があるようにも思えます(……わかりませんがw)。

以上、てつさらがさらっと書きました。