てつさらです。

先日の投稿で、仏教の座禅や瞑想による訓練の結果もたらされる特異な精神状態が、脳の幻覚に過ぎないのではないか、ということを書きました。

それとちょっと関連する話なのですが……

私は、仏教的な無我や無私の境地というものについての疑念を拭い去ることができないでいます。

例えば、スティーブ・ジョブズが愛読した禅の本に、『弓と禅』というものがあります。これは、戦前、オイゲン・ヘリゲルというドイツ人が、東北帝国大学で哲学を教えるために来日したときに、弓術の大射道教を創始した阿波研造(あわ・けんぞう)と言う人を師として弓の修行を行ったときの記録です。

『ある日私(ヘリゲル)は師範(阿波研造)に尋ねた、「いったい射というのはどうして放されることができましょうか、もし“私が”しなければ」と。
「“それ”が射るのです」と彼は答えた。
「そのことは今まですでに二、三回承りました。ですから問い方を変えねばなりません。いったい私がどうして自分を忘れ、 放れを待つことができましょうか。もしも“私が”もはや決
してそこに在ってはならないならば。」
「“それ”が満を持しているのです。」
「ではこの“それ”とは誰ですか。何ですか。」
「ひとたびこれがお分かりになった暁には、あなたはもはや私を必要としません。そしてもし私が、あなた自身の経験を省(はぶ)いて、 これを探り出す助けをしようと思うならば、私
はあらゆる教師の中で最悪のものとなり、教師仲間から追放されるに値するでしょう。 ですからもうその話はやめて、稽古しましょう。」
(中略)
 その頃ある日のこと、私が一射すると、師範は丁重にお辞儀をして稽古を中断させた。私が面食らって彼をまじまじと見ていると、「今し方 “それ”が射ました」と彼は叫んだのであ
った。やっと彼のいう意味がのみ込めた時、 私は急にこみ上げてくる嬉しさを抑えることができなかった。
 「私がいったことは」と師範はたしなめた、「賛辞ではなくて断定に過ぎんのです。それはあなたに関係があってはならぬものです。 また私はあなたに向かってお辞儀したのでもあり
ません、というのはあなたはこの射に全く責任がないからです。 この射ではあなたは完全に自己を忘れ、無心になって一杯に引き絞り、満を持していました。 その時射は熟した果物の
ようにあなたから落ちたのです。さあ何でもなかったように稽古を続けなさい。」
かなりの時が経ってからようやく、時々また正しい射ができるようになった。 それを師範は無言のまま丁重にお辞儀をして顕彰するのであった。正しい射が私の作為なしにひとりでのよ
うに放たれるということが、どうして起るのか、どうして、私のほとんど閉じられた右手が突然に開いて跳ね返るようになるのか。私はその当時も、 また今日でもこれを説明することが
できない。
(ヘリゲル『弓と禅』より)

これは、まさに、禅宗的な「無我」「無私」の境地を示したものだと思います。

また、玄侑宗久氏の『禅的生活』という本には、禅の悟りの境地について、次のように書かれています。

「柳は緑 花は紅」の作者の蘇東坡居士は、返本還源の景色を次のように謳う。

  渓声(けいせい)便(すなわ)ち是(こ)れ長広舌(ちょうこうぜつ) 山色(さんしき)豈(あに)清浄身(しょうじょうしん)にあらざらんや

 つまり悟ってみれば、谷川のせせらぎの音も「長広舌」の声のように聞こえるというのだが、「長広舌」というのは釈尊の能力をたたえるための特異な「三十二相」という身体的特徴の一つ。抜群の説法力を意味する。だから渓流の音も釈尊の説法として聞こえるし、山の景色もそのまま悟った人の清浄な身体に見えると言うのである。「自然の分身」という言葉が短縮されて「自分」という言葉ができるのだが、ここでは分身というより大自然そのものに自分を感じる。
 道元禅師は同じことを和歌でうたう。

  峰の色谷の響きもみなながら わが釈迦牟尼の声と姿と

 もうこうなると、大自然の全ての相から調和が感じられ、有り難くて有り難くて仕方ないのである。「体露金風(たいろきんぷう)」という言葉もある。金風とは美しく紅葉した葉を散らす秋風のことだが、金風で煩悩が霧散してしまったので、すべてが露見しているというのだ。
(玄侑宗久『禅的生活』より)

ここでも、自己が無となり大自然と一体化するという境地が語られていると思います。

さらには、最近ビジネスの分野でも注目されている「マインドフルネス」、その元となっている上座部仏教の「ヴィパッサナー瞑想」というものがあります。この瞑想法の目指しているのも、また主体と客体の融合ということみたいです。

良道:ティック・ナット・ハン師は、あくまでもマインドフルネスというのはこの主体と客体が分かれた世界じゃなくてそれを超えた非二元の世界のことなんだよ、ということをはっきり書いているんですよ。それはなぜかといえば、このシンキング・マインド=見聞覚知の主体というのは、あくまでも二つに分ける意識だから、これが働いている限り主体と客体は分かれざるを得ない。これが落ちて初めて、われわれは主体と客体が落ちた世界に入っていける。(中略)テーワーダではこのシンキング・マインドが汚れているとされているわけ。だからこの主体が汚れているからこの汚れをだんだん落としていこう、それが修行なんだという話になります。(中略)この汚れが完全に落ちたら、ニールヴァ―ナ、涅槃に到達できる。
(藤山一照・山下良道『アップデートする仏教』より)

つまり、主体と客体という区分が無くなり、一体となった状態が、涅槃ということです。

しかし、このように主体と客体、自我と他者……などの区別をなくすなどということが本当に可能なのでしょうか?

無我の境地に至り、主体と客体の区別がなくなったとして、そういう状態になったと判断しているのは、一体誰なのでしょうか?それはやはり主体なのではないでしょうか?

ここで、私の個人的なことを言わせてもらうと……、私は昨年、生まれて初めて全身麻酔というのを経験しました。手術室に入り、手術台に横たわり、麻酔科の医師からマスクのようなものを鼻と口のところに着けられたところまでは覚えているのですが、その後の記憶が全く無く、次に意識が戻ったときには、すでに手術は終わっていました。

もし本当に自我というものが消失したら、この全身麻酔のときのように、全く意識が無くなっていないとおかしい。そうなると、無我の境地に至った、主体と客体の区別がなくなった……などと判断することすらできないはずです。

その辺が、私にはどうしても理解不能なのです。

このことについて、上記の藤山一照氏&山下良道氏の本では、次のように書かれています。

良道:それは結局のところ「何が瞑想しているのか」という問題なんです。(中略)だから瞑想で一番大事なことは、シンキング・マインドを手放すことなんです。(中略)
一照:じゃあ、また雲と青空の喩えを使うと、雲ではなく青空が、呼吸を見たり、坐禅をするということになる。
良道:そのときに初めて、ものごとをありのままに観察するとか、パーフェクト・エクアニミティ、浄化、慈悲など、ウィパッサナーが約束している全てのことが自ずと成立します。
(前掲書より)

この「雲」というのが主体、「青空」というのが主体と客体の区別が消失した状態のことなのでしょう。しかし、この本では、そういう青空の状態がある、ということが言われているだけで、それが具体的にどういうものなのか、語られていません。そのことが、最も知りたいことなのに……。

いずれにしても、瞑想や座禅によって、主体と客体の区別が消失するとか、無我の境地に達するといったことが本当に可能なのか、私はかなり懐疑的になっています、特に全身麻酔を受けてからは……。

以上、てつさらがさらっと書きました。