去年の年末に、NHKの短い番組で、「待庵」を紹介していました。(かなり前の番組の再放送だったと記憶しています)

国宝「待庵」は、千利休が作ったとされる茶室の中で、唯一現存しているものです。一目見てわかるように、待庵は、限界まで無駄を削ぎ落とした末にできた、究極の茶室と言えます。

番組の中で、その待庵について、ある陶芸家(だったと思います)の方が、次のようなことを言っていたのが印象的でした(正確な引用ではありませんが……。)

「待庵は、無駄なものを全てそぎ落としていって、あの姿になった。しかし、ただ単に必要ないものを外に排除したのではない。外部に削ぎ落としたものを、その中に内包しているのだ」、と。

これは、以前の私のブログの記事で、画家セザンヌをめぐる松浦寿夫氏と小林康夫氏との対談の一節を引用しつつ書いたことに通じています。

【松浦】:……ところで、セザンヌ自身が非常に愛し、かつまたほとんど自己同一化したばかりか、自らの理論を言語化する際に準拠したともいえる小説の登場人物として、バルザックの『知られざる傑作』の中の、しばしば悲劇的と見なされる天才画家フレンノフェールがいます。この画家が、ポルビュスという画家の絵に文句をつけながら手直しする一節があります。ここでのフレンノフェールによる批判は、空気が感じられないとか、奥行きと拡がりが欠けているとかいった言葉で表現されていますが、もっとも重要な点は、なんでもないもの(rien)が欠けている、だが、また、このなんでもないものがすべてであるという指摘だと思います。そして、これまで、たとえば距離という語で指し示してきたものも、この「なんでもないもの」だと思うし、結局、このなんでもない、目に見えないものが、視覚性ないし可視性の経験を支えているといえるのではないでしょうか。「無」が欠けている、つまりなんでもないものが欠けているという表現は、非常に矛盾した表現なのですが、画家はある対象を描くと同時にその周囲の空間をいわば描かずにして描いているという経験を、きわめて具体的な事実にして描いていると思います。こういう何となく美術実践の教科書みたいなことになるけれども、なにもないもの、あるいはなんでもないものが描けるかどうかは、たとえ、それがオール・オーヴァーな抽象絵画の場合であってさえ、きわめて重大な問題だと思います。

(小林康夫他・『モデルニテ・3×3』より引用)

 

待庵は、無駄なものを削ぎ落とすかたちで構成されています。ですから、当然、その中には、排除されたものは含まれていません。外に捨て去ったものが、内部に存在することは、論理的にあり得ないことです。

しかし、優れた画家が、ある対象を描くと同時にその周囲の空間をいわば描かずにして描くことができるように、利休も、排除した外部を待庵の中に内包化するという、不可能なことを成し遂げたのです。

以上、てつさらがさらっと書きました。