てつさらです。

ずっと前の記事で、私は、マラソンのテレビ中継について、次のようなことを書いたことがあります。

マラソン中継では、もちろん、外のコースを走る選手たちの姿が中継され続けます。そして、私たちはその映像を見て、その駆け引きやデッドヒートに興奮します。

しかし、それとはまったく異なるマラソン中継のあり方もあるのではないか、そのように思うのです。

それは、二時間以上、競技場の風景しか放送しない、という中継方法です。

カメラは、スタートの時点からずっと、競技場の中を映したままです。選手たちが競技場から見えなくなっても、ずっと競技場の風景を放送し続けるのです。

選手たちが外のコースを走っている間、テレビには、選手たちの姿は全く映りません。二時間以上、選手たちが力の限りを尽くして走り続け、デッドヒートを繰り広げている間も、そのことを私たちは一切知ることができないのです。

この記事を書いた時には、何か言い足りない気がしていました。

それとは別の記事で、私は次のようなことを書いていました。『想像力の冒険-わたしの創作作法-』という本についてです。

この本に収められた、「日常から日常のかなたへ」という文章の中で、児童文学者の皿海達哉氏は、作品の中に生きた時間と空間をなるべく具体的に構築したいと述べています。

例えば、小学4年生のとき、皿海少年は朝、登校の途中で黒い大きな牛が溝の中にはまって動けなくなっている姿を目撃します。大人たちが何とか牛を引き上げようとしていますが、動きません。皿海少年は、去りがたい気持ちを抱えながらも、そのまま登校します。

一日中学校で勉強したり、友達と遊んだりしているうちに、皿海少年は牛のことはすっかり忘れてしまいます。

しかし、放課後の帰りしなに同じ道を通ると、朝の牛がまだ同じ場所で動けないままになっているのを見つけます。大人たちの苦労にもかかわらず、牛は結局救われないまま、肉屋に売られることが決まり、そのトラックを待っているところだったのです。

そのとき、皿海少年は、すべてのものの上に平等に時間が流れているという、一種名状しがたい感情を伴う認識に到達するのです。

この記事に書かれていることと、マラソンの記事に書かれていることは、同じことなのです。(それに気づいて、以前何が言い足りなかったのか、理解できました。)

私の想像上のテレビ中継では、競技場を選手たちが出て行ってからの約二時間の間、選手と私たちとは、言わば異なった時間の流れの中にいます。競技場の情景しか見えない私たちは、ただ二時間という時間をそうやって過ごすしかないのです。

しかし、選手たちが、42kmという長い長い距離を走り抜け、競技場に戻ってくる瞬間、それまで別々だった選手たちと私たちの時間が再び合流するのです。その瞬間、私たちは大切なことに気づくことができるでしょう。

そう、すべてのものの上に、平等に時間は流れているのです。

以上、てつさらがさらっと書きました。