てつさらです。

以下の文章は、前にちょっとTwitterでつぶやいたことですが、備忘録用として、ブログにも載せておきます。

 

ハイデッガーやデリダの基本的なアイデアは、この現前化された世界の裏側に、非現前の何かの働き、運動のようなものがある、ということだと思う。それはたとえば、虚数というものは、実数の数直線上には存在しないが、自乗するという働きによって、数の世界をこの世に生み出す、ということに似ている。

虚数が、実数の数直線上にないのと同様、ハイデッガーの存在や、デリダの差延の働きを、私たちのこの現前化された世界の中で見ることはできない。

だから、存在や差延の働きを捉えるには、特別の工夫が必要になる。デリダが出来事を、前未来(未来のある時点で既に完了している事態)という時制で語るのは、おそらくそういう工夫の一つなのだろう。

その意味で、デリダの「前未来形」と、親鸞の「已然形」との間には、深い共通点があるように思える。

私たちは当然、現前化された世界に住んでいるから、その世界の下に非現前の働きがあることに気づいていない。陰陽で喩えると、陽である現前化された世界に住んでいる人間には、陰である非現前の働きは見えない。しかし、そういうことがちゃんと見えている人がいる。悟りを得た人には見えているのだ。

陰陽が逆転する。私たちは現前の世界が陽で、非現前の働きが陰だと思っている。(あるいは、陽の世界しか見えていない)。しかし実は、この世界は陰であり、私たちは他からの光を受けて輝いているだけなのかもしれない。

それは、自ら輝いていると思っていた月が、実は太陽の光を受けて光っているに過ぎないと分かるようなものだ。人は、大病をしたり、自分の限界を覚ったときに、そのことに思い至る。このことを中村雄二郎氏は「逆光の存在論」と言っている。

ホーキング博士は、「虚(数)時間」という考えを導入することで、宇宙の始まりという特異点が、時間軸上のどこに位置づけられるか、という難問から逃れようとした。彼のこのアイデアは、非常に示唆に富んでいる。時間軸上のどこにも存在しない過去というものが、確かにあるのだと思う。

 

以上、てつさらがさらっと書きました。