てつさらです。

今回も、以前、Twitterで連続してつぶやいたことのまとめです。

備忘録用にブログに転用します。

学校の体育の時間って、大学受験などを目指している学生にとって、あまり重きを置かない息抜きの時間的に捉えられているかもしれないけど…、実は非常に重要な時間なのだ。体育の時間を通して、私たちの身体は、知らず知らずのうちに、時代の要請に沿ったものに改造させられているのだから。

生まれたままの自然な身体や運動などというものは存在しない。私たちは仮面ライダーのような改造人間なのだ。例えば、江戸時代までは、日本人の大部分の歩行は「ナンバ歩き」だったが、明治維新以降急速に「洋式歩行」へと変化した。その変化を担った一つが、学校の体育の時間だった。

私たちの時間意識もそう。今でこそ、「日本人は時間に非常に正確」「日本の電車は世界一正確」などと自画自賛しているけど。明治の初めごろ、外国人のお雇い技師たちは、日本人があまりに時間にルーズなことを嘆いていた程。遅刻という概念が生まれたのは、富岡製糸場のような工場が生まれて以降だろう。

私は子どもの頃非常に時間にルーズで、しょっちゅう遅刻ばかりしていた。学校の教師は、そんな私をこっぴどく叱りつけた。今思うと、教師のこの叱責によって、私の時間意識は学生時代、完全に改造させられたのだ。(おかげで今は普通に社会生活を営めているから、感謝すべきなのかもしれないけど…)

「時間に正確」、「遅刻を絶対にしない」…というのは、本当に称揚されるべきことなのだろうか?もちろん、そういう人は社会から高い評価をうけるだろうが…。それは、時代の要請に従って、時間意識を完全に改造させられてしまった結果だ、ということを意味しないだろうか?

社会主義国などにおける一糸乱れぬマスゲームなどを見て、気持ち悪い、と感じる人は多いと思う。それはあまりに露骨に社会の要請に従った人間の改造が可視化されているから…。しかし、実は私たちも同じくらい改造されているのではないか。それが露骨に可視化されていないので、気づかないだけで…。

「日本人」という概念も同じ。(以前のブログにも書いたが…)「日本人」という概念が国の隅々にまで広まったのは、明治維新以降のこと。一部の支配層を除き、「自分は日本人だ」と意識していた人など、江戸時代以前にはほとんどいなかっただろう。

ただし、非常に厄介なのは、いったん「日本人」だという意識が定着すると、その概念が、時間をさかのぼって、「私たちは古事記、日本書紀の時代から、もともとずっと日本人だったのだ」というように、それ以前の歴史さえ規定するようになること。つまり時間の逆転現象が起きるのだ。

この厄介な時間の逆転現象によって、私たちの身体の改造人間化、私たちの時間意識の後天性、日本人という意識の後付け性などが、見えなくなってしまうのだ。最近の「日本ってこんなにすごい国なんだよ」ブームは、その時間の逆転現象の悪影響の最たるものだと思う。

以上、てつさらがさらっと書きました。