てつさらです。

大リーグ、マーリンズのイチロー選手が、日米通算で1968得点を記録し、王貞治氏のプロ野球最多得点記録(1967得点)を抜いたことが話題となっていますね。

イチロー選手の野球に対するストイックな姿勢は、誰からも称賛されていますね。この大記録も、その毎日の積み重ねの結果だと思います。

もちろん、私も、彼のその努力に敬意を表することにやぶさかではありません。

しかし、こういうことを言うと怒られるかもしれませんが……、私には、彼の偉大さがいまいち理解できないのです。

毎日、厳しい練習を重ね、記録を積み重ねていく、そのことは確かに称賛に価します。しかし、それはある型にはまった努力ではないか、不遜ながら、そう感じてしまうのです。

フランス文学者の内田樹氏は、「天才」について、次のように語っています。

乱暴に言ってしまうと、いくら変化しても変化の仕方は変化しない人が「凡人」であり、変化する度に、変化する仕方そのものまで変化する人が「天才」というのではないか、と思ったのです。
(中略)
進化におけるこの「断絶」が、天才の天才性の徴ではないかと僕は思います。
天才が常にある領域における天才であり、それとは別の領域で天才を発揮するときには、それまでとはまったく違うアプローチをする。一度うまくいったからと言って、同じ「サクセス・モデル」を何度も使いますというようなことは、天才は絶対しない。
ということは、凡人はこの逆の道をたどるのだと思います。つまり、ごりごりと修行して、ある段階で何とかその最上段まで上り詰める。そして、そこである種の「ブレークスルー」を経験して第二段階に進む。その第二段階の最上段で、また前回と「同じ種類の」ブレークスルーによって、次の段階に進む……。たしかに、そんなふうにして着実に技術が向上するのですけれど、技術の向上をもたらす決定的契機は常に同一なわけです。例えば、あるボクサーが前回の試合では毎日一〇キロの走りこみをして成功したので、次の試合の前は毎日一五キロ走り込むことにしました……というような場合がそれです。「進化の仕方は進化しない」。それが凡人の限界なんだと思うのです。
(内田樹・甲野善紀『身体を通して時代を読む』より引用)

上記の内田樹氏の考えに従えば、私には、イチロー選手の努力は、凡人のそれではないか、そう思えるのです。

プロ野球ファンの全員を敵に回す考えかもしれませんが……。

以上、てつさらがさらっと書きました。