てつさらです。

仏教では、私たちが人として生まれることの奇跡、そしてその人が仏、または仏の教えに会うことの難しさについて、さまざまな喩えを使って表現しています。

例えば、天台宗の開祖、最澄は、『願文(がんもん)』という著作で……

「大きな海の底に沈んでいる一本の針を見つけ出して拾い上げること」、「ヒマラヤの山頂から糸を垂らして、麓の針の穴にその糸を通すこと」、私たちが人として生まれることの奇跡、そして仏の教えに出会う奇跡は、それほどの稀な確率だと言っています。

大変な低確率ですね。

また、『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』には、「大海の底に100年に1度、海上に浮かび上がる1匹の盲亀がいる。その海には、1本の浮木が流れていて、木の真ん中に1つの穴がある。盲亀が100年に1度浮かび上がった際に、ちょうど、その浮木の穴へ頭を突っ込む」、という話が出てきます。これも、奇跡の確率の喩えです。

これらの喩えをそれぞれ、「大海の針」「妙高の糸」「盲亀浮木(もうきふぼく)」というそうです。

こういう確率というのは、もう無限に小さいと考えていいのですが、私たちはその無限を経て、今、現実にこの世の中に存在しているわけです。

つまり、私たちという有限の存在には、無限が折りたたまれていると考えることもできます。

そういう視点から、私たちの命というものを考え直してみるべきなのでしょう。

以上、てつさらが、さらっと書きました。