てつさらです。

先日の記事で、若い頃は大人を軽蔑して嘲笑っていた私自身が、今は完全に軽蔑され嘲笑われる存在となったということを書きました。

『砂の果実』という曲には、このような、能動と受動が入れ替わる様が多く描かれています。

あの頃の僕らが 嘲笑って軽蔑した
恥しい大人に あの時なったんだね

……

生まれて来なければ 本当はよかったのに…
あの日 君に投げた 声に復讐されてる

……

弱虫の偽善者は 僕の方だったよね
そこから笑えばいい 堕落してゆく僕を

……

あの頃の僕らが 嘲笑って軽蔑した
空っぽの大人に 気づけばなっていたよ

このような能動と受動の相互作用に関して、スラヴォイ・ジジェクは「ブーメラン」の比喩を使っています。

ブーメランにおいては、「標的に命中させるhitting the target」ことは「自分自身に命中せしめるmaking oneself hit」ということへと変化する。つまりこういうことだ。私がブーメランを投げるとき、その「目的〔=終点〕goal」はいうまでもなく標的(動物)に命中させることである。しかし投擲の真の技は、目的を逸してしまい、ブーメランが帰ってくるときに、それをきちんとキャッチできるというところにある。要するに、真の目的aimとは、ブーメランが自分に帰ってこれるように、目的を外すということなのだ(それゆえブーメランを扱う際もっとも困難なのは、それに命中してしまうことなくただしくキャッチする技、すなわち、ブーメラン投げに含意されている潜在的自殺次元を防ぐ技なのである。)
(S・ジジェク『否定的なもののもとへの滞留』

標的に当たらなかったブーメランはそのまま方向を変化させ、今度はそれを投げた当人へと戻って来て、その人にヒットしようとします。

この方向転換こそ、能動が受動へと転換することなのです。

すなわち、ブーメランを投擲する真の目的とは、標的にヒットさせることではなく、自分の元へと戻ってくるように、上手に標的を外すことに他ならないのです。

以上、てつさらがさらっと書きました。