てつさらです。

以前、私の旧ブログで、映画におけるイマジナリーラインの約束事を、マンガにおいても守るべきではないか……、ということを書きました。

今回の投稿も、映画の手法と、マンガの手法との違いについて、書きたいと思います。

映画においては、何か動きのあるものを複数のカメラ・ポジションで撮影する場合、守らなければならない決まりがあります。それは、その動きの全て同じ側にカメラを配置しなければならないということです。

メディアとしての映画は独特の特性を持っている―それは、さまざまなアングルから撮ったアクションの断片的部分だけを使って、連続した動きを記録できるという特性である。部分ごとに一瞥された意味深長な動きは、始めから終わりまでワン・ショットで記録された動きよりも真に迫っていて、おもしろいことがよくある。しかし、この場合に絶対に必要なことは、動きをとらえるカメラ・ポジションがすべて同じ側になければならないことである。
(ダニエル・アリホン著『映画の文法』より引用)

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上の図は同書より引用したものですが、カメラが置かれる位置は、常にクルマの進行する矢印の左右どちらか一方(この図では右側)にしなければなりません。矢印のラインを超えた位置にカメラを置くと、そのショットだけクルマが逆方法に進んでいるように感じられて、見る人が混乱してしまうのです。

この法則は、カメラを固定して撮影する場合だけではなく、被写体と一緒にカメラが移動する場合にも有効です。

例えば、映画『ミッション・インポッシブル』(監督:ブライアン・デ・パルマ)におけるクライマックスシーン。TGVとヘリのシーンでは、カメラは常に、列車の進行方向の右側(最悪でも列車の屋根の中央部分)にポジショニングされ、被写体を追いかけます。カメラが進行方向の矢印を超えることはありません。(唯一、トンネルの中で、短い間、このラインを超えるシーンがあります。それはトム・クルーズが進行方向の左側へと転落してしまう場面です。しかし、トムが向こう側へと落ちる様子を事前に見せられているので、カメラがラインを超えても、観客が混乱することはありません)

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(↑列車は画面上方に向かって進んでいる。カメラは右側後方から列車を追いかける)

MI_2

(↑列車は向かって右方向に進んでいる。カメラは列車の右真横から列車と並走する)

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(↑カメラは列車の屋根の中央から、後ろ向きに撮影。列車の中央ラインを超えることはない)

進行方向に対して、カメラ・ポジションをすべて同じ側にすることで、シーン全体を通して大きな方向性が生まれ、観客は混乱することなく、まるで自分も同じ列車に乗っているような感覚を覚えることができるのです。

一方、マンガにおいては、動くものはどのように描かれているでしょうか。マンガでは、必ずしも映画のような厳密な法則は守られていなようです。

例えば、少し古い作品で恐縮ですが、『ファントム無頼』(史村翔原作・新谷かおる作画)の一シーンを見てみると……。

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右上の最初のコマでは視点は戦闘機の進行方向の左側にありますが、その下のコマでは、ラインを超えて右側へと置かれています。(その間に、戦闘機が方向を変えるシーンは描かれていません。)

あるいは、これも古い作品ですが、『ベルサイユのばら』(池田理代子作)。マリー・アントワネットが乗った馬が暴走し、それをオスカルが追いかけるシーン。

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ほとんどのカットは、馬の走る方向に対して、左側に視点が置かれています。ただ、左ページのオスカルと馬のカットは、右側からの視点に移っています。

皆さんは、このマンガのシーンを見て、どのように思われるでしょうか?

『ベルサイユのばら』の場合、オスカルがアントワネットの馬を追い越して方向転換した、という風にも解釈できますが……、次の見開きを見ると、そうではないことがわかります。私の印象では、その辺がやや紛らわしいようにも思えます。

もちろん、映画とマンガを同列に置くことはできません。戦闘機や人馬が、何ページにもわたってずっと同じ方向で移動していたのでは、絵が単調になってしまう、といったこともあるでしょう。

そのシークエンスにおける首尾一貫性を重視するのか、あるいは絵のバランスを重視するのか、そのどちらかで、描き方が違ってくるのでしょう。

以上、てつさらが、さらっと書きました。