てつさらです。

■『ステキな金縛り』における幽霊の証言

sutekinakanashibari

脚本家で映画監督でもある三谷幸喜氏。彼の作品では、『古畑任三郎』などのテレビ作品が大好きで、よく見ていました。

でも、彼がメガホンをとった映画作品はちょっと苦手……。正直、映画にする意味がよくわからなくて(テレビドラマで十分じゃないか、って思っちゃいます。)

でも、数年前に公開された『ステキな金縛り』という作品は、ちょっと興味深いです。あ、いえ、作品として評価するということではなく、その設定が哲学的に面白いという意味で……。

(いまさらですが、あらすじを紹介すると……)
妻を殺した容疑で逮捕された被告の弁護を、宝生エミ(深津絵里)という冴えない女性弁護士が引き受けます。状況証拠などから、裁判に勝てる見込みはほとんどないように思われます。しかし、被告人である夫(KAN)は、自分にはアリバイがあると主張します。犯行時間に、彼は奥多摩の旅館にいて、そこで幽霊に金縛りに掛けられていた、というのです。半信半疑のまま、エミはその旅館に赴きます。すると本当に落ち武者の幽霊(西田敏行)が現れ、彼女に金縛りをかけてしまいます。エミは被告の無罪を主張するため、この落ち武者の幽霊を裁判に出廷させ、証言させることを決意します。

……といった内容ですが、この映画の肝はもちろん、幽霊を証言者として出廷させるという設定の面白みにあります。(「証人はただ一人、落ち武者の幽霊。」というのが、この映画のキャッチコピーです。)この幽霊の姿は、エミなど一部の人を除き、誰にも見ることはできないのです。姿の見えない、発している言葉が周りに聞こえない幽霊に、どうやって証言させるのか、どうやって裁判官にそれを信じてもらうのか……、エミの悪戦苦闘が始まります。

幽霊が証言者として認められるのか、その証言が裁判に採用されるのか。

現実の世界では、もちろんノーでしょうね。

そりゃそうです。もし私が裁判員となって、担当する法廷で同様のことが起こったら、「馬鹿にするな!」と怒り出すと思います。

でも、なぜでしょう?なぜ幽霊の言葉は、証言として採用されえないのか……。

 

■幽霊や超能力者の証言の価値は?

もちろんまず、その姿が見えず、その声が聞こえない、という事が大きいですね。一部の人だけが見える、聞こえると主張しても、それが本当に言っているのか、確かめる術がありません。

では、仮にその部分がクリアになったとして、幽霊の証言は法廷で採用されるでしょうか?(この映画では、そうなっていましたが……)

やっぱり難しいんじゃないかなぁ……。

だって、私たち生きている者たちが幽霊となって旅館の部屋に突然現れて、宿泊客を金縛りにかけたりすることができないからです。人間は、幽霊が行うことを再現することなどできないのです。

証言が証言として認められるためには、それが証言者以外の普通の人によって再現可能でなければなりません。

この映画のように幽霊だったり、あるいは超能力者であったりした場合には、証言として認められる可能性はほとんどないと思います。

例えば、ある証言者が全く光のないところで、「殺人の現場を目撃した」と主張したとしたらどうでしょう。同じ状況で試してみて、他の人が何も見ることができないとしたら、その証言は証言としての価値を持たないでしょう。「いや、なぜかその時だけ、私には見えたのだ」といくら主張してもだめです。

また、仮に、証言者が本当に超能力を持っていたとしても、それが後で何度も検証が行われ、「この証言者は全く光のない状況でもものが見える」と証明されないかぎり、やはり証言としての価値はありません。

self portrait
self portrait / shawnchin

 

■私という存在の絶対固有性を支えるもの

以上で、何が言いたいかというと……。

そのときだけの、その人だけの、一回かぎりの体験は、実はその他の人や、その他の体験の再現可能性(反復可能性)に支えられているということです。

たった一人の目撃者しかいない場合(「証人はただ一人」)、その場所で、その出来事を目撃したのは、その人だけです。まさにその時間、その場所で、その人だけが目撃できたことで、誰もその代りになることはできません。しかし、その目撃証言が、証言としての真実性を得るためには、例えば他の人によっても再現できなければなりませんし、あるいは他の時間においても再現できなければならないのです。

世界中でその人だけ、その場所だけ、その瞬間だけ……、といった一回こっきりの反復不可能性と、誰にでも、いつでも、どこででも……といった反復可能性は、分かちがたく結びついているわけです。

このことは、私という唯一無二の、固有の存在をどう考えるか、という問題にも直結しますね。私とは、他とは替えのきかない、絶対的なユニークさを持って今を生きている、そう私たちは信じています。しかしその私の超絶ユニーク性は、実は、誰にでも置き換えられられるという私の存在の陳腐さに通じてもいるのです。

以上、てつさらが、さらっと書きました。