てつさらです。
■内田樹さんのつぶやきより
ちょっと前の話ですが……、フランス文学者の内田樹さんが、次のようなツイートをしていました。
脳が活動停止する最後の瞬間にすべての資源を投じて「夢を見る」のです。主観的時間としては最長50年間くらい(『邯鄲』によれば、それくらいの長さです)。そしてこの夢はたとえ耐えがたい悪夢であっても「目覚めて、逃れる」という(ふだん僕たちが使っている)手が使えません。
— 内田樹 (@levinassien) 2014, 2月 7
死の寸前に「悪夢」を見てしまった人間は、主観的時間としては50年間にわたって悪夢を見続けなければいけない。「楽しい夢」を見た人間は飽きるほど長い時間を「夢のような」愉悦のうちで過ごす。死ぬ寸前に「悪夢」を選ぶか「楽しい夢」を選ぶかは、その人の「死の迎え方」で決まります。
— 内田樹 (@levinassien) 2014, 2月 7
死の直前に見る夢は、客観的な時間としては、数分のことかもしれません。しかし、そこから覚めることができない以上、それは50年間くらいの時間を内包しているともいえます。
(内田さんのツイートの本来の内容とはちょっと変わるかもしれませんが…、)これを読んで、「客観的時間」と、「主観的時間」の関係についてちょっと考えました。
■同じ夢を毎日見る?
別の、もっと身近な例を考えてみましょう。
Quinn and Voodoo Walrus / quinn.anya
例えば、「わたし、毎日同じ夢を見るの…」とある女性が私に言ったとします。でも私は、彼女のその言葉に疑いを持つこともできます。
もしかしたら彼女は、「毎日同じ夢を見ている」、という夢を、今朝一度見ただけなのかもしれないからです。
逆に言えば、客観的にはたった一回の夢だとしても、主観的には、何年も同じ夢を見続けていると言っても、決して嘘ではないのです。
■映画「コンタクト」より
もう一つ別の例を。
ロバート・ゼメキスの監督作品に、『コンタクト』という映画があります。(以下、ネタバレ注意)
この作品のクライマックスで、ジョディ・フォスターは、ポッドという宇宙間移動装置に乗り込みます。ポッドはクレーンで吊り下げられ、それをその下にある高速回転マシンの中へ落とすという仕組みになっています。
ポッドは予定通り、クレーンから落下しますが、実験は失敗したように見えます。それを外から観察している人には、それが落下して海面に落ちる、その一瞬の様子だけが見えたからです。
しかし、装置の中にいるジョディ・フォスターは、まったく別の経験をします。ポッドは宇宙をワープし、はるかかなたのヴェガという星に到着します。そしてそこで、死んだはずの父親に再会するのです。
科学者や政府機関の連中は、彼女のその体験を、妄想ではないかと疑います。客観的時間においては、彼女の装置はただクレーンから海へと落下したしたにすぎないからです。それはほんの数秒の出来事です。
でも、彼女はどうしても自分の経験した数時間という宇宙移動を否定できません。さらに興味深いことに、彼女が実験中に身につけていた携帯ビデオにはノイズしか映っていないのですが、その記録時間は、エリーの証言通り、18時間にも及んでいるのです。
■主観的時間の大切さ
このように、滑らかな「客観的時間」の表面の下に、「主観的時間」が折りたたまれているということは、十分ありえます。
「客観的時間」の基準に合わないからといって、「主観的時間」を否定するのは馬鹿げています。
特にそれが「死」といった、その人独固有の問題にかかわる場合には……。
以上、てつさらが、さらっと書きました。
肉体的な時間と精神的な時間……
視界と視野みたいなものですかね。
エゴを手放して、視野を大きくすれば、外界の情報を取り入れやすくなり、それが精神の充実につながる。
☆葉子様
おっしゃる通り、「視野を大きくすれば」
見えてくる世界があるでしょうね。
必ずしも「エゴ」を手放す必要はないかもしれませんが…
考えが至りませんでした。すみません。
エゴは弱めるというか……。
エゴが強いままで視野を大きくするのって、できるんだろうか?
また、エゴが強いのと、エゴに囚われている状態とは、同じなのだろうか?