今日で正月の松の内は終わりですね(松の内の期間については所説あるみたいですが…)。

このお正月、初詣に行った方も多いと思います。

以前の投稿にも書きましたが、初詣というのは古来から日本人に根付いていた習慣ではなく、明治期以降に鉄道会社が寺社と結んで企てたマーケティングの産物だそうです。

そのような比較的新しい人工的な習慣が、まるで古来からの日本人の習わしであるかのように思われているのは、とても興味深いですね

それはさておき、初詣などで神社や寺院を訪れると、私たちはつい神様や仏様に向かって手を合わせてお願い事をするのが普通になっています。もちろんそれを否定するつもりはないのですが…、

日本人のそういう神や仏との対峙の仕方というのは、宗教的な本質とはちょっとずれてるのかなとも思います

私たちが神や仏に接する意味というのは、私たちの存在の意味や、我々の来し方、行く末について思いを巡らせるところにあります

その本質を外して、単なる願い事や願望の対象としてしか神様や仏様を見ないのは、あまりにも皮相で、情けない接し方ではないでしょうか。

例えば、(内田樹氏によれば)ユダヤ人は、この世界に「遅れて到来する」ことによって、誰よりもまず先立って「有責性」を引き受けている。自分は他の人々より多くの責務を負っているということを、神によって命じられるのです。

このような神との対峙の仕方は、ただ単に自分の都合のいいように神を利用しようとする私たちの初詣の立ち位置とはずいぶん違うように思えます。