てつさらです。

年が明けてから、運動不足解消も兼ねて、できるだけ散歩に出かけるようにしています。

去年は自宅で仕事をすることも多く、ほとんど家から出ない日が結構ありました(ポプリの散歩の時間を除き)。体力もかなり落ちたことを感じていたので、今年からできるだけ体を動かすように努めているのです。

毎日同じコースを歩くと飽きてしまうので、できるだけ今まで通ったことのない、知らない近所の道を通っています。今の場所に引っ越してから7年ぐらいになると思いますが、最寄駅への道や、買い物をする道以外に、自宅周辺の道をほとんど知らないことに愕然としてしまいます。7年間も一体私は何をしてきたんだろう…。

そういえば、以前住んでいた住所をGoogle マップなどを使って、パソコン上で訪問することがたまにあるのですが、やはり決まったルート以外のところはほとんど歩いていなかったことに気づきます。何年も住んでいるにもかかわらず、自分が住んでいる町のことをほとんど全く知らなかったことに、我ながら情けなさを感じます。

ところで、森鴎外は、ドイツ留学時、見ず知らずの大都市であっても、自分の立ち位置をしっかりと把握し、そこから世界を再構成していたそうです。

鴎外は絶えず自分の位置を確認し、自分を中心にして世界を再構成している。ベルリンに着いたとき、「余は……忽ちこの欧羅巴の新大都の中央に立てり」と小説に書いている。ヨーロッパは当時、文句なく文明の全体すなわち「世界」ということだったから、自分はいま世界の中心に立っている、という自負を持ってベルリンの土を踏みしめていたことになる。そして彼の幾何学的に明晰な目は、はじめに歩道を歩いていく紳士淑女たちを見、次に車道を走る馬車を見、それから宮殿、塔、というように、だんだんに遠くの方へ視界を拡大していくという方法をとる。遠近法的といってもいいし、もっとはっきりいえば「世界を領略」せんとする者の目だ。
(花村太郎『知的トレーニングの技術』より引用)

このような鴎外の幾何学的に明晰な目は、彼の小説『青年』にも表れています。

鴎外の小説『青年』は、やはり田舎出の青年主人公・小泉純一が上京してきた場面から始まるのだが、書き出しに、
「小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った」
とあるように、彼は地図という世界の模型を持ってこの都会に乗り込んでくる。小説の全体も、当時の東京の思想・文化・風俗の案内マップのおもむきをもった教養小説として仕立てられている。
(前掲書より引用)

自分の住んでいる町、自分の立ち位置を中心にそこから世界を客観的に見渡し、再構成するということは、生きるために必要な能力なのかもしれません。その意味で、これまでの私は全く生きるための能力を欠いていたと言わざるをえません。

今年は運動不足解消とともに、世界を再構成する手段として、積極的に散歩に時間を割きたいと思います。

以上、てつさらがさらっと書きました。