てつさらです

先日、テレビのお笑い番組を見ていて(……って、最近テレビネタばっかりですね。情けない)、ある2人組のコントに非常に感心しました(コンビ名は失念しました。すみません)

ある出版社の入社の面接の場面です。その会社を志望する学生と面接官が対峙しています。面接官はその学生に色々質問をしています。学生はその質問にすらすらとよどみなく答えます。しかしその答えは何か紋切り型で、学生の表情もどこかうつろです。

いくつか質問を重ねるうちに、面接官はその学生が面接のマニュアル通りに答えていることに気づきます。そして、そのマニュアルは、まさにその出版社が出している本なのです。学生はそのマニュアル本に書かれてあることを一字一句変えずにそのまま答えていたのです。

この面接官は究極のジレンマにとらわれます。マニュアル本に書かれていることをそのまま答えるような学生を採用するわけにはいきません。そんな学生は、入社しても役に立たないことは目に見えているからです。しかしその学生を落としてしまうと、その出版社が出しているマニュアル本が全く役に立たないものであることを自ら証明してしまうことになります。

迷いに迷った面接官は、結局その学生を採用してしまうのです。

これは非常に示唆に富むコントだと思います。

私たちが何かを批評したり論じたりする場合、往々にして、自らの立場を度外視してしまいます。しかしこのコントでもわかるように、ときにそれは私たち自身へと還ってくるのです。

このコントを見て私が反射的に思い出したのは、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下に対するアメリカ人一般の考えでした。多くのアメリカ人は、原爆投下によって日本本土での地上戦が行われずに済んだ、その結果日米双方の数百万人にもおよんだであろう戦死者を救ったのだ、そう考えているようです。

確かにそのような考えは正しいのかもしれません。しかしそのような考えを、原爆によって亡くなった人たちに伝えたとしたらどうでしょう。多くの人は「その犠牲者は、なぜ他ならぬ私なのか?自分自身が犠牲者となったら、そんなことを本当に主張できるのか?だったら立場を入れ替えようじゃないか」、そう反論すると思います。

自分を度外視したうえで、あることを論じることは非常に簡単でしょう。よく「総論賛成、各論反対」と言われますが、これも同じようなことです。

しかし、真理は、おそらく自分自身を含みこんだところに存在するのです。もし、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下を正当化する人自身が、自ら進んで被爆者としたら、その時は、その正当化は真理へと昇華することでしょう。

正当なものであることと、真理であることは、このように全く違うことだと思います。

以上、てつさらがさらっと書きました。