てつさらです。

私がいつも頭を悩ませているのは、「今」という問題についてです。

私たちは「今」という瞬間においてこの世界と接しています。たとえば、今という瞬間に、同じ場所で、走っている車と私が接触すれば、私は交通事故に遭遇してしまいます。

仮に、同じ場所でも、違う「今」で出会っていれば、私は交通事故に遭遇しなくて済みます。「今」という瞬間を共有しているからこそ、私は交通事故に遭ってしまうのです。

生きている者たちはすべて、この世界において今を共有しています。

私が死んでしまえば、私は「今」の世界から脱落します。それが死というものの意味するところだと思います。

今は無限に遡ることができるのかもしれません。宇宙の誕生であるビックバンとともに、時間というものが始まったと考えることももちろんできます。しかし、常に「それ以前」を考えることもできるのです。そう考えると、なぜ「今」が私たちの手元に、すなわち他ならぬ「今」に、存在するのでしょうか。(これは、矛盾す言い方かもしれませんが…)

そもそも「今」なしでも、世界は在り得たのかもしれません。しかしなぜか、今というものがこの世界を明るみに齎しています。

ライプニッツは「なぜ無ではなく、何かがあるのか」と問いました。私の問いは、それに近いのかもしれません。ただ、何かがあったとしても、それが「今」という瞬間によって明るみに齎されないとしたら、それは無に等しいといえます。ライプニッツの疑問には、「今」という最も肝心な要素が抜け落ちているように思えます。

映画のフィルムを喩えに考えてみましょう。映画のフィルム全体は、この世界で起こりうる全ての出来事です。上映中その一部に光が当てられることによって、そのフィルムに焼き付けられていることが「今」として浮かび上がります。私たちは、その光によって浮かび上がった世界に生きているのです。

過去にも未来にも無限に続くフィルムの中で、なぜあるコマだけに光が当てられてスクリーンに映し出されるのでしょうか?そもそもフイルムの存在だけでよかったものが、なぜわざわざ上映される必要があったのでしょうか?フイルムを映写機にかけて上映しようと思ったのは誰なのでしょうか?それが神という存在なのでしょうか?

このフィルムの過去の端っこはどこにあるのでしょうか?無限に遡れるのでしょうか?だとしたら、その無限を乗り越えてどうして「今」は、他ならぬこの瞬間にまでたどり着けたのでしょうか?(……ということは、やはり時間には端っこがあるのでしょうか?)

フィルムの未来の端っこはあるのでしょうか?あるいは端っこなどなくて、永遠に「今」は推移していくのでしょうか?(フィルムは無限に回り続けるのでしょうか?)

考えれば考えるほど、訳がわからなくなってきます。

以上、てつさらがさらっと書きました。