てつさらです。

今年の5月だったと記憶していますが……、NHKで、特集番組「チンパンジー アイたちが教えてくれた ヒトは想像の翼を広げる」という番組が放送されました(再放送だったみたいだけど)。

番組のHPから引用すると……

「私たちヒトとは一体何者なのか?」その答えを、ヒトに最も近い生きものチンパンジーと比べることで探るプロジェクトがある。チンパンジーのアイに言葉を教えたことで知られる京都大学霊長類研究所の松沢哲郎博士らのグループだ。700万年前に同じ祖先から分かれた両者はどこまで共通の能力を持ち、どこで進化の道筋を分けたのか? 40年近い研究で浮き彫りになったのは、他人の気持ちを想像し助け合って生きるヒトの姿だった

番組を見て印象的だったのは、チンパンジーとヒトの能力の決定的な違いについて説明されているところでした。

2歳半くらいのヒトの子どもとチンパンジーは、知的能力に関してはそれほど差はありません(瞬間的な記憶力という点では、チンパンジーの方がはるかに高くすらあります)。ただ、足りないものを補う想像力という点では大きな違いがあるのです。

例えば、片目だけが描かれていない猿の顔の絵を見せられた場合、ヒトの子どもは、その欠けた方の目をすぐに描き足そうとします。しかし、チンパンジーは、すでに描かれている方の目の上はマジックでなぞるのですが、決して欠けている方の目を描き足そうとはしないのです。

つまり、チンパンジーにとって、目の前に実際にあるもの(描線)に注目することは簡単なのですが、「本来あるべきものが無い」ということを理解しそれを補うことは非常に難しいのです。

一方、2歳半以上のヒトの子どもは、目の前にないものを補うことができます。これは想像力の働きです。この想像力の有無が、ヒトとチンパンジーを大きく分けるものだと、番組では述べられていました。この想像力があるおかげで、ヒトは相手の心を思いやり、お互いに協力し合うことが可能となるのです。これが文明を生み出す元となりました。(ここには、言葉という非常に大きなファクターが関係していますが、そのことについてはとりあえず措くとして……)

私はこの番組を見て非常に感心し、さらにその先を想像してしまいました。

チンパンジーとヒトの間には、「本来あるべきものが無い」ということを想像するという点で隔たりがあります。この隔たりをもう一段スライドさせて考えてみたらどうでしょう。一般的なヒトと哲学的、宗教的天才の間にも、やはり乗り越えられない隔たりがあるとしたら……。それは、「本来あるべきものが無い」ことを想像する力よりも、もう一段高い力です。

すなわち、哲学的、宗教的天才は、何も欠けたものが無い状態でも何らかの欠落を想像することができるのではないか。例えば、猿の顔が完璧に描かれた絵を見せられても、そこに何らかの欠落を感じ取り、それを補おうとする能力です。(←これは下手な比喩ですね)

このことについては、以前のブログでも書いた、画家セザンヌをめぐる松浦寿夫氏と小林康夫氏との対談の内容に通じるのかもしれません。

【松浦】…ところで、セザンヌ自身が非常に愛し、かつまたほとんど自己同一化したばかりか、自らの理論を言語化する際に準拠したともいえる小説の登場人物として、バルザックの『知られざる傑作』の中の、しばしば悲劇的と見なされる天才画家フレンノフェールがいます。この画家が、ポルビュスという画家の絵に文句をつけながら手直しする一節があります。ここでのフレンノフェールによる批判は、空気が感じられないとか、奥行きと拡がりが欠けているとかいった言葉で表現されていますが、もっとも重要な点は、なんでもないもの(rien)が欠けている、だが、また、このなんでもないものがすべてであるという指摘だと思います。そして、これまで、たとえば距離という語で指し示してきたものも、この「なんでもないもの」だと思うし、結局、このなんでもない、目に見えないものが、視覚性ないし可視性の経験を支えているといえるのではないでしょうか。「無」が欠けている、つまりなんでもないものが欠けているという表現は、非常に矛盾した表現なのですが、画家はある対象を描くと同時にその周囲の空間をいわば描かずにして描いているという経験を、きわめて具体的な事実にして描いていると思います。こういう何となく美術実践の教科書みたいなことになるけれども、なにもないもの、あるいはなんでもないものが描けるかどうかは、たとえ、それがオール・オーヴァーな抽象絵画の場合であってさえ、きわめて重大な問題だと思います。”
『モデルニテ・3×3』より引用)

哲学的、宗教的、芸術的天才だけが、現実に目に見えるもの(例えば絵画)のうちに、「なんでもないもの」を見ることができるのかもしれません。

以上、てつさらがさらっと書きました。