てつさらです。

今年の夏流行したものと言えば、「ポケモンGO」ですね。一時期の熱狂的なブームは去ったようですが、休日になると、今でもお台場(レアなモンスターがゲットできる場所)に人が殺到しているそうですから、まだまだ流行は続いていると言っていいでしょう。

言うまでもなく、この「ポケモンGO」には、AR(拡張現実)という技術が使われています。スマホなどをかざすと、現実の世界にオーバーラップして、CG などで作った架空の画像などを表示できる技術です。

数年前、私の会社で少しこのARにコミットしていたことがあって、私はそれ以来、このARの技術の可能性に注目し続けています。

このARは、実に興味深い技術といえると思います。この現実の世界の上に何かを表示することで、現実の世界が一枚岩的なものではなく、実は多層的なものであるということを改めて認識させてくれるからです。

例えば、21世紀のこの時代に、関ヶ原という場所を訪れることを考えてみましょう。(私は行ったことがないので、間違っているかおしれませんが)多分そこは今は単なる草原にしか過ぎないでしょう。しかし、戦国時代の合戦に詳しい人がその場所を訪れれば、その現在の世界に重ね合わせて、(西軍の陣地はここ、東軍の陣地はここ……といった具合に)1600年の関ヶ原の戦いの様子をありありと見ることができるのではないでしょうか。

つまり、今のこの現実の世界の下にはさまざまな歴史の古層が積み重なっていて、知識があれば、我々はその過去の層を現実にオーバーラップしてみることができるのです。

ARの技術は、知識がない人にも、そういう世界の多層性を垣間見ることを可能にしてくれます。そういう意味で、ARは、非常に興味深い技術なのです。

更に、もしかしたらこのARの技術は、哲学的にも非常に役に立つのかも知れない、私はそんなことさえ夢想しています。

哲学、あるいは宗教的な偉人たちは、この現実の世界の上に、普通の人では見ることのできないもう一つ別の世界を、オーバーラップしてみることのできる人たちだと思います。例えば、この世界に存在する物を、決して完全なものとして世界に存在しているのではなく、常に未完成なもの、途上にあるものとして存在すると捉える、とうことです。

それゆえ物は、決して完全には、それ自体に-おける-物[物自体]として世界の内に到着しきっていない限りでのみ、存在の内に到来する。物とは何か?物とは生起しつつあるもの、物とは途上にあるものだ。しかし、この意味において物を見るとは、ハイデッガー自身が「物」において言っているように、「退歩する」ことだ。
(ハーマン・ラパポート『ハイデッガーとデリダ』より引用)

そういう意味で、哲学的、宗教的偉人たちは、今の関ヶ原に1600年の合戦の関ケ原をオーバーラップして見ることのできる歴史の達人たちに近い存在です。

しかし歴史的な見方と、哲学的、宗教的な見方との決定的な違いがあります。それは、歴史の達人たちが見ることのできる別の世界は、過去の歴史上において実際に起こった出来事に基づいたものです。

しかし、哲学的、宗教的な偉人たちが見る世界は、必ずしも歴史上のある時点に起こったこととは限りません。過去の時間軸において一度も起こらなかった過去の出来事、そういうありえない出来事を見ることのできる人こそ、哲学的、宗教的な偉人たちなのです。

もしかしたらARの技術は、そういう哲学的、宗教的偉人たちしか見ることのできない別のビジョンを、見ることを可能にしてくれるのかもしれません。そんな淡い期待も少し抱いています。

以上、てつさらがさらっと書きました。