てつさらです。
少し暇になったので、ヘーゲルの『精神現象学』を少しずつ読み進めています。
この本、何度か挫折しているんですよね。(大昔に、よく分からないまま、一回通しで読んだくらいです。)
挫折の原因は、あの忌々しい「序論」や「緒論」があるせい。そもそも、ヘーゲル自身がその「序論」の中で、「序文は必要ない」みたいなことを言っているくらいだから……。
ということで、その辺はすっ飛ばして、「意識」の章から読みは始めています。すると、けっこう面白いのです。
ハイデッガーやデリダを思わせる記述もあって、「ヘーゲルって、やっぱりすごい哲学者だな」、と納得しながら読んでいます。
皆さんも、ぜひ「意識」の章から、直で読み始めてみてください。
以上、てつさらがさらっと書きました。
「区分の密かな導入」を拝読しました。私は謡曲をしていますが、扇を前方に振り下ろすときに、呼気と共に
エイッと気合を込めてやる訳です。しかしその最後に至る手前では針に糸を通すように寸分の狂いなくピタッと嵌まっていなければなりません。つまり、気合いの中にも観(離見=心眼)の繊細さが要求されます。斉藤教授の「すべての関係はSーM」も拝読しました。率直に言って、論理主義ですね。私は、リアリズムの背後に
論理学を紐解くこと=哲学と考えています。従って、論理主義は遊びです。私は気合いの中に、矛盾した観を
必要としていることを矛盾的自己同一と考えています。Mが自己実現のために痛み(被虐)を必要としていることも矛盾的と考えています。有ー無ー成(始元論)も矛盾的自己同一です。しかし、ヘーゲルはそこに止まることなく成werdenへと思惟突破させました。私はそれを、日本的に「気」であると考えています。
赤井隼人様
コメントありがとうございます。返信遅れ、申し訳ありません。
謡曲をなさっているとのことですが、私の記事が謡曲の世界にも少しは通じているのかな、と、感慨深くコメントを拝見しました。
「区分の密かな導入」も、「すべての関係はSーM」も、かなり前に書いた記事なので、当時のことはよく覚えていないのですが…w、コメントいただいたことは、たぶん、私の記事の内容よりも、数段深いことを意味されているのではないかと、拝察いたします。
それは、謡曲の訓練の中に、赤井さんが、実践を伴ったかたちで、矛盾的自己同一を展開されているからだと思うからです。
そういう経験をしたことのない私にとって、日本的な「気」といったものは、かなり難解なものに感じられました。
そういう、私の実践の不足ということを、痛感しています。
(てつさら)