てつさらです。

今日もまた、SNSなどで喧しい「文系vs.理系」問題について書きますが……。

カドカワドワンゴ会長の川上量生氏なんかは、次のようにツイートしています。(以下、彼のTwitterより引用)

昨日は議論参加しながら理系脳と文系脳について考えていたが、やっぱり脳の中で扱える論理式のサイズが文系は小さいんだと思った。プログラミングを覚えられるかどうかの資質ともリンクする話だと思う。

あと、論理式のある記号を定義が確定できているのか、不定のまま仮に値をいれて演算しているだけなのかを厳密に区別しながら思考する能力に文系脳は欠けると思う。

どれも脳の中で論理式を扱う時に使用できるワーキングメモリが小さいから起こる問題だと思う。

これって、ものごとに対するアプローチとか思考パターンの問題であって、別にそれだけで頭の良し悪しにすぐには結び付かない話ですよね。

こういう発言を見ると、例えば西洋人が未開人を見下すやり方に非常に似ている気がします。西洋と未開の差って、単なる文化の差の問題であって、優劣の問題ではないんですよね。

レヴィ=ストロースは、二つの異なる文化の関係について、次のようなことを言っています。

物体の移動の次元と速度とは、絶対値では なくて観察者の位置の関数であるということを示すのに、列車の窓際に座っている旅客にとって、別の列車の速度と長さは、それが同方向に移動するか反対方向 に移動するかによって変わるということが指摘される。ところで、一つの文化に属するすべての構成員は、この理念上の旅客がその列車と密接に結びついている のと同じように、その文化と密接に関連している。
(中略)
自然界の観察者には、(旅客の例で示したような)動かないように見えるもの は自分と同方向に移動している諸体系であり、他方もっとも速度の早いものは違った方向に移動している諸体系である。文化の場合はそれと逆である。というのは、諸文化は、われわれの文化の方向に移動すればするほど、われわれには一層活動的にみえ、その方向が相分かれれば、停滞的に見えるのである。

『人種と歴史』より引用)

川上量生氏のような人には、少なくともレヴィ=ストロースくらいは読んでほしいです。

以上、てつさらがさらっと書きました。