てつさらです。

とんち話で有名な一休さんと、浄土真宗本願寺の中興の祖、蓮如さんは、宗派こそ異なれ、親交があったそうです。

二人の交流に関するエピソードはいろいろありますが、次ようなものが有名です。(この話にはいろいろバリエーションがありますが……)

ある時、一休さんは松の木を眺めていました。その松の幹や枝はひどく曲がっています。やがて、一休さんは弟子に向かって「あの曲がった松を、まっすぐに見ることができるか?」と尋ねました。

その弟子は、いろいろ工夫して松を見ますが、どうしてもそれをまっすぐに見ることができません。

一休さんはその弟子に向かって「松をまっすぐに見る方法を知っている者が一人いる。蓮如さんだ。彼にその見方を聞いてこい」と言います。

弟子は早速、蓮如さんを訪ねて、一緒に松の木を見ながら「どう見れば、松がまっすぐ見えますか」と問います。すると蓮如さんは、「この松を「曲がった松だな』と見るのが、まっすぐに見るということだ。曲がりくねった松を、まっすぐに見ようとしているから、見ることができないのだ。曲がった松を曲がった松と見るのが、「まっすぐ見る」ということなのだ」と教えます。

なるほど、これは仏教でいうところの、「正見」(しょうけん)というものですね。

仏教では、まっすぐというのは、松の木という知覚の対象ではなく、それを見る自分の心の問題ととるわけです。

この辺は、自然科学的な見方と、仏教的な見方の差の問題だともいえます。
元埼玉工業大学学長の武藤義一氏は、その違いを次のように論じています。

……自然の真の姿を覆い隠しているベール、すなわちカヴァー(cover)を除去(dis-)することが発見(discover)の語源になっているといわれている。つまり自然科学の立場から言うと、自然は真の自分の姿は隠しているもので、人間がそのベールをはがさないと真理を見出すことはできないと考えているのである。
 
 これに対して仏教の立場は覆われているのは自然の真の姿ではなくて人間の側であり、人間の眼がベールに覆われているために真実の姿が見えないとするのである。このベールが煩悩であって、人間は誰でもとかく自己中心にものを考え、それによってあらゆるものに執着して常に迷の世界にさまよっているとするのである。したがって煩悩を修行によって脱去し、ベールを取り去れば真実の姿が明らかとなって悟りの世界に行くことができると説かれる。
 ここで注目するのは、自然科学も仏教も真理を認識するためにはベールをはがすことが必要であるとしていることである。ただし一方では自然の真理にベールがかかっているとし、他方ではこれを見る人間の側の眼や心にベールがかかっているとしている違いはあるけれども。
(岩波講座『宗教と科学』(2)より引用)

以上、てつさらがさらっと書きました。