てつさらです。

電車の中で、中吊り広告をぼんやり見ていました。すると、週刊文春の広告で、ふと気になる文章に目が留まりました。

「菅野美穂は堺雅人と結婚後はCM中心で専念」

bunshun

一瞬、「変な文章だなー」って思いました。“菅野美穂は堺雅人と結婚した後は、ドラマや映画などの仕事ではなく、短い収録ですむCMに専念して、堺雅人とのプライベートな時間を大切にしている」……、私はそう読み取ったので、変な文章だと感じたわけです。そういう意味なら、「菅野美穂は堺雅人と結婚後はCMに専念」でいいじゃないか。週刊文春の記者は、まともな日本語も書けないのか、と……。

しかし、私のその理解は間違っていました。よく見ると、それは、“人気女優の「妊活」事情”というコーナーの中の記事だったのです。つまり本当は、「菅野美穂は堺雅人と結婚後はCM中心の仕事にして、(妊活に)専念している」という意味だったのです。そういう意味であれば、この広告の文章は全くおかしくありません。

ある文章だけを取るとおかしく見えるものでも、その外側に別の大きな枠組みなり情報なりの存在があれば、全く正しい文章になりうるのです。

もしそうだとすると、「本当に変な文章なんてあるのか?」と思ってしまいます。

私たちは、例えば子供たちが書いた文章だけを見て、下手な日本語だ、とか、文章になっていない、などと判断し、ずんずん赤字を入れて添削してしまいます。しかし、もしかしたら、その文章の外側にはそれを補完する情報が常にあって、読解の枠組みを広げてそこまで視野に収めれば、その子どもの文章も、実は的確なものであるかもしれないのです。

そうであれば、正しい文章って、いったい何なんでしょうか?下手な文章なんてあるのでしょうか?

(私のこの文章自体、とても下手なものであることは自覚しています。しかし、実はその外側に重要な情報があるのです。あえてそれは何かは言いませんが……w)

以上、てつさらがさらっと書きました。