てつさらです。

仏教は、よく「慈悲」の宗教だと言われます。例えば、お坊さんというと、私たちはすぐ、慈悲深い人、というイメージを抱きます。

しかし、仏教の説く慈悲は、私たちが通常イメージする慈悲とはちょっと異なっています。

例えば、曇鸞は『往生論註』という本で次のように書いています。

慈悲に三縁あり、一には衆生縁、是れ小悲なり、二には法縁、是れ中悲なり、三には無縁、是れ大悲なり。
(曇鸞『往生論註』より)

慈悲には、「衆生縁」、「法縁」、「無縁」の三つの縁があると言うのです。

「衆生縁(しゅじょうえん)」とは、私たちの日常における慈悲に近いものです。たとえ他人であっても、自分の父母兄弟であるかのように相手に尽くすということです。これは日常の感覚では非常に立派なこととされます。しかしそこには、自分の父母兄弟を特別なものとして他とは区別する心理が働いています。

この執着を離れ、自分の父母兄弟ですら全く特別なものと見なさなくなった段階の慈悲は、「法縁」となります。これは、修行して覚りを得た者の境地と言えます。

しかしまだ「法縁」には、自力で修行を行なう者という主体が残されています。その主体をも離れた慈悲が「無縁」です。その段階では、自己が超越されているとともに、慈悲を行なう他者も超克され、いかなる特定の対象をも持っていません。自己も他者も超越し「空」の状態にあるこの慈悲は、如来や菩薩のものであるとされています。

よくドラマや映画などで、家族の大切さ、尊さなどを繰り返し描いていますが……、仏教では、そのような家族の愛に執着するのは、「小悲」のレベルなのです。(お釈迦様自身、家族を捨てて出家していますから……。)

そういう家族愛がドラマや映画で描かれるたびに、私たちはつい涙をこぼして感動してしまいます。しかし、実はこの涙というのが曲者なのかもしれません。

「血も涙もない」ということがよく言われますが、実は仏教的には、血も涙もない状態の方が、「大悲」に通じる可能性があるのではないでしょうか。

ドラマや映画などを見て家族愛につい涙してしまうのは仕方ありませんが、それはただ涙腺を刺激されて、自動的に涙が流れているのだ……、という程度に考えるべきだと思います。

以上、てつさらがさらっと書きました。