てつさらです。

年の瀬も押し詰まり、あっという間に大晦日です。

半年ほどかなり忙しい日が続き、ブログ更新も全くできませんでした。あーあ。

12月に入った頃から、すこしだけ時間に余裕ができたのですが……、あまりに長期間更新しなかったせいで、今度は書きたいことが何も思い浮かばないような状態になってしまいました。

仕方ないので、最近見たテレビドラマのことでも書こうと思います。

『信長協奏曲(コンチェルト)』(フジテレビ)、けっこう面白かった。忙しい中でも、これは毎週欠かさず見ていました。

石井あゆみという方の同名のマンガを原作としたドラマだそうですが、私は原作の方は読んでいません。

あらすじの紹介をWikipediaに任せると……

勉強が苦手な高校生のサブローは、ひょんなことから戦国時代、天文18年(1549年)にタイムスリップしてしまい、そこで出会った本物の織田信長に、病弱な自分の代わりに信長として生きてくれと頼まれ、信長として生きていくこととなる。
当初は、周囲から困惑され裏切りや暗殺されかかるも誤解や偶然が重なり飄々と切り抜ける。このことから家中や領民から支持され、家臣の平手政秀の死をきっかけに本気で天下統一を志す。室町幕府第13代将軍の足利義輝との謁見をはじめ、尾張、美濃を制覇し京に上洛後、敵対した足利将軍家・朝倉家・浅井家・武田家など隣国大名を打ち破っていく一方、楽市楽座・産業振興・兵農分離などを推し進め領地経営も成功し安土城築城を開始して天下人へ駆け上がりつつある。
(Wikipediaから引用)

このドラマの一番の見どころは、サブローのもっている現代の価値観と、彼がタイムスリップした先の戦国時代の価値観のぶつかり合いでしょう。

現代に生きるサブローにとって、人命は何よりも尊重されるべきかけがえのないものです。今の私たちの生命は、生存権をはじめ、多くの権利によって守られています。国家権力といえども、(少なくとも建前上)それを一方的に奪うことはできません。

しかし、サブローがタイムスリップした戦国時代はそうではありません。人の命は、もっと軽く扱われています。家臣は主君のために命を捧げなければなりませんし、戦に負ければ当然相手に首を討ちとられます。また、何か大きな失敗をしたり、主君に背いたことが発覚すれば、家臣は即刻腹を切らねばなりません。

しかし、現代的価値観を持ったサブローは、そのような戦国時代の価値観を否定し、命を大切にして生きることの大切さを周りの人たちに説きます。

例えば、第一話で、信長(=サブロー)は、弟の信行に裏切られ、挙兵されます。しかし、幸運も重なり、何とか信行の謀反を押さえることができます。戦いの後、信行は捕まり、サブローの前に引き出されます。
サブローは、「この戦で458人もの兵が死んでいった」と、信行に伝えます。
「わしを守るために死ねて本望だったろう。……誰が死のうがわしには関係ない。家臣などただの駒じゃ、道具じゃ」とうそぶく信行に対して、サブローはこう答えます。
「死んで本望の人間なんているわけないだろう。家臣は、道具や駒じゃない、人なんだ。一人一人に、死んだら悲しむ奥さんや家族がいるんだ。生きててほしいって思う人たちがいるんだ。信行、お前にだっているんだぞ」
サブローはそう言って、信行を殺すことなく放免してやるのです。

ドラマでは、このようなサブローの現代的な思想は、次第に周りの人たちに影響を与え、信長の快進撃を支えるようになります。「この人ならば、無駄死にが溢れる世の中ではなく、本当に平和な世の中を作ってくれるのではないか」、家臣たちはそう信じるようになるのです。

もちろん、サブローのような一人一人の命を重視する人権感覚と、戦国時代における人を使い捨てにするような感覚、そのどちらが正しいのか、一概に言うことはできません。

ただ、今よりも、戦国時代の方が、一部の支配層を除き、大部分の人たちが、信行の言うように「駒や道具」として生きていたことは確かでしょう。

そのような時代では、天寿を全うして生きた人の割合は、今よりもかなり低かったことでしょう。戦で死ぬことに加え、病気や飢餓、天災などによって死ぬ確率も、今とは比較にならないくらい高かったと思います。

そういう状況では、自分の子孫を残すには、できるだけ多くの子供たちを産むことが必要になってきます。多くの子供たちを産み、確率的にある一定以上の数の子供が生き乗るようにするという生物学的な戦略です。

これは、基本的に野生動物たちが取る戦略と同じです。野生の世界は、人間の世界以上に過酷です。そこで、野生動物たちも、一定の割合の個体は成長する前に死んでしまうという確率をあらかじめ織り込んだうえで、それに見合うだけ多くの子供を産んでおくという生き残り戦略を取っているのです。

動物の世界に見られるような死の平凡化、それこそ武士道が目指した精神なのかもしれません。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」(葉隠)。それは、自分が単なる駒にしかすぎないという自覚から生まれた精神だと思います。

極めて強い人権感覚を持った現代のわれわれにとって、このような命の意識を持って生きることは極めて困難でしょう。一人一人の人間は皆かけがえのない存在だと信じて生きる私たちが、自分は道具や駒だと自覚するということなど簡単にはできません。

私という存在は、他とは取り換えの効かないかけがえのないものであると同時に、駒や道具のように、いくらでも替えのきく存在にすぎないのです。

ところで、もし戦国時代に生きていたとして、自分がそのような「駒や道具」として生きるとはどのような感覚なのか、ちょっと関心があります。そういう風に自分を規定してもなお、「私」として生きるとはどういう意識状態なのでしょうか。

p.s.
このように考えると、出生率の低下は、人権感覚の高度化によってもたらされたものであるとも言えるでしょう。
出生率を上げるためにさまざまな国によってさまざまな対策が取られているようですが、今のような人権意識を持ったまま出生率だけ上げることは、多分難しいでしょうね。
飢饉や戦争、パンデミックなどによって、私たちは所詮「駒や道具」に過ぎないのだという意識が人々の間に蔓延しない限り、大幅な出生率の改善は見込めないと思います。

多くの先進国では、今、人口が減り続けています。日本では、毎年数十万人規模で、人口が減っています。このような出生率の低下による人口減と、飢饉や戦争、パンデミックなどによる人口減には、もしかしたら何の違いもないのかもしれません。
否、出生率低下による人口の自然減は、終わりが見えない分、戦争などの惨禍よりも、よりたちが悪いともいえます。

以上、てつさらがさらっと書きました。