てつさらです。
私の旧ブログ「哲学するサラリーマン」の今年(2014年)の正月の投稿で、今年の目標として、“自分が「なんでもないものを描いた絵」のような存在になる”ということを掲げました。
この「なんでもないものを描いた絵」って、いったい何なのか?
いい絵画においては、そこに描かれていないことが、描かれていなければならない。これは明らかに語義矛盾です。絵画では、描かれてあることが全てです。描かれていないことが描かれている絵、そんなものは存在しえない、そう考えるのがふつうです。
しかし、例えば、『モデルニテ・3×3』という対談集の中では、この「なんでもないものを描いた絵」について、次のように説明されています。
【松浦】:…ところで、セザンヌ自身が非常に愛し、かつまたほとんど自己同一化したばかりか、自らの理論を言語化する際に準拠したともいえる小説の登場人物として、バルザックの『知られざる傑作』の中の、しばしば悲劇的と見なされる天才画家フレンノフェールがいます。この画家が、ポルビュスという画家の絵に文句をつけながら手直しする一節があります。ここでのフレンノフェールによる批判は、空気が感じられないとか、奥行きと拡がりが欠けているとかいった言葉で表現されていますが、もっとも重要な点は、なんでもないもの(rien)が欠けている、だが、また、このなんでもないものがすべてであるという指摘だと思います。そして、これまで、たとえば距離という語で指し示してきたものも、この「なんでもないもの」だと思うし、結局、このなんでもない、目に見えないものが、視覚性ないし可視性の経験を支えているといえるのではないでしょうか。「無」が欠けている、つまりなんでもないものが欠けているという表現は、非常に矛盾した表現なのですが、画家はある対象を描くと同時にその周囲の空間をいわば描かずにして描いているという経験を、きわめて具体的な事実にして描いていると思います。こういう何となく美術実践の教科書みたいなことになるけれども、なにもないもの、あるいはなんでもないものが描けるかどうかは、たとえ、それがオール・オーヴァーな抽象絵画の場合であってさえ、きわめて重大な問題だと思います。
(小林康夫他・『モデルニテ・3×3』より引用)
「なんでもない、目に見えないものが、視覚性ないし可視性の経験を支えている」、この指摘は、非常に重要だと思います。
無いものが、有るものを支えている、……それに関して、別の例を挙げましょう。
「忍ぶ恋」という言葉をご存じでしょうか?
これは、鍋島藩士・山本常朝による『葉隠(はがくれ)』という、武士の心構えを説いた書物に出てくる言葉です。
恋の悟りの究極は忍ぶ恋である。
恋しなん後の煙のそれと知れ
つひにもらさぬ中の思ひはという歌があるが、そのようなものだ。生きて命がある中に、自分の恋を打ちあけるのは深い恋ではない。恋い焦がれて思い死にをする恋が、このうえない立派な恋だ。たとえ思う人より「こうではございませぬか」と問われても「まったく思いもよらない話だ」と言って、忍びに忍んで口に出さぬ恋に死ぬのが最高である。恋とはなんと廻りくどいことであろうか。
(中央公論新社・奈良本辰也訳『日本の名著・17』より引用)
「忍ぶ恋」は完全に相手へのコミュニケーションを断った恋です。どんなに相手に恋い焦がれようと、その思いは決して相手には打ち明けてはなりません。打ち明けた瞬間、その純粋性は失われてしまうからです。つまり、この二人の間には、表向き、恋は存在しないのです。
しかし、その沈黙こそ、まさに二人の「恋」を支える最も根源的なものに違いないのです。
さて、四月となり、一年の四分の一が過ぎてしまいましたが……、今年の目標である「なんでもないものを描いた絵」のようなもの、「忍ぶ恋」のようなものを、私はまだ見いだしていません。
以上、てつさらが、さらっと書きました。
沈黙…無…
音楽を支えるのも無音…
それもまた音だから耳に障る人もいるのでしょうね…
☆葉子様
そうですね。音楽の中で、無音の占める部分は非常に大きいですね。
特に、東洋の音楽には、その間(ま)の要素が強いと思います。