てつさらです。

いきなりですが……、ゴールデンボンバーのコンサートに行く意味って何なんでしょうかね?

彼らは、いわゆる「エアーバンド」で、実際には楽器は演奏していません。コンサートなどで流れる曲は、ボーカル以外、全てiPodに録音されています。カラオケと同じですね。

下のPVにも、iPodをクルクルやって曲を選択する場面が出てきます。(3:17くらいのとこ)

そういうエアバンドの演奏を、わざわざ会場に行って見聞きする意味は何なんでしょう?

もちろん、金爆の場合は、大変ユニークなパフォーマンスによって、行く意味は十分あるとは思いますが……。

ゴールデンボンバーのこの独特の演奏?方法は、コンサートに行って音楽を生で聞くという体験について、重い哲学的な考察を引き出してくれるように思えます。

コンサートにおいて、ミュージシャンが発する演奏を聞くという体験は、その時一回限りの、かけがえのない体験です。そのコンサート会場にいる聴衆だけが、その一回限りの、他には替えがたい体験をすることができます。

しかし、本当にそれだけなのでしょうか?

コンサート会場で、「ああ、今流れているこの曲は、今この瞬間だけに味わうことのできるものなんだー」と私が感激して言えるためには、私は過去において、なんらかの知識を得ていなければならないのではないでしょうか?

少なくとも、音楽を聞くとはどういうことなのか、コンサートに行って生演奏に耳を傾けることとはどういうことなのか、ゴールデンボンバーとはどういうミュージシャンなのか……、といったことについて、なにがしかの知識がなければなりません。

そうしなければ、もはや「ああ、今流れているこの曲は、今この瞬間だけに味わうことのできるものなんだー」といった感慨にふけることさえ、不可能になってしまうに違いありません。

例えば、生後間もない赤ちゃんや、全くの未開人をいきなりコンサート会場の席に座らせたとしたらどうでしょう。彼らは、今自分の身のまわりで何が起きているのかさえ、たぶん理解できないことでしょう。とうぜん前述のような、「今、この瞬間、この場所で……」といった感慨にふけることさえ、彼らには不可能なのです。

つまり何が言いたいかというと……、「今、ここ」という他とは比べられない、かけがえのない瞬間の体験というものは、実は、過去のさまざまな体験と分かちがたく結び合っている、ということなのです。「かけがえのなさ」を得るためには、その「かけがえのなさ」から、私たちは一歩退かなければならないのです。

その意味で、コンサートでiPodに録音された音源を使用するという金爆の演奏方法は、とても象徴的なことのように思えるのです。

以上、てつさらが、さらっと書きました。