てつさらです。
前回の投稿で、梅一輪の存在が、世界の在り様を一変させる、という話を書きました。
今回も、それに関連した話です。
■レイモンド・カーヴァ―の「何か」
短編作家のレイモンド・カーヴァーに、「書くことについて」(村上春樹訳全集『ファイアズ(炎)』所収)という文章があります。
タイトル通り、彼の文章作法について書かれたもので、小説家志望者には必読の文献です。
その中で、次のような一節があります。
V・S・プリチェットは短篇小説というものこう定義している。それは「通り過ぎるときに、目の端っこでちらっと捉えられた何か」であると。「ちらっと捉えた」というところに注目してほしい。まず最初にその「ちらっ」があるのだ。それからその「ちらっ」に生命が与えられ、その一瞬の情景を明るく照らし出す何ものかに変えられる。そして運が良ければ(という表現がここでもう一度出てくるわけだが)それは、もっと遠くの方までに光をあてることのできる繋がりやら意味やらまでを手に入れることになるかもしれない。短篇小説作家の仕事は、その「ちらっと捉えたもの」に対して自分の持っている力の一切を注ぎ込むことなのだ。
(レイモンド・カーヴァー「書くことについて」より引用)
「目の端っこでちらっと捉えられた何か」、それは、前回の投稿における一輪の梅の花に相当するものです。
私たちの世界を一変させるの何かは、けっして正面切って私たちに対峙することはありません。それは必ず、「通り過ぎるときに、目の端っこでちらっと捉えられた何か」のように、偶然性を帯びたものなのです。
■松尾芭蕉の「なずなの花」
松尾芭蕉の俳句に、
“よくみれば薺(なずな)花咲く垣根かな”
というものがあります。
この句に詠まれた「薺(なずな)の花」も、この世界を一変させるきっかけになるものだと思います。
垣根の傍らに、なずなの花が咲いている。そのつつましい、白くて小さな花を目にしたとき、芭蕉は何かを悟ったにちがいありません。
芭蕉は、最初からなずなの花を見ようとしていたわけではありません。「よくみれば」という部分が示すように、それとの出会いは、偶然に満ちたものだった。しかし、芭蕉の慧眼は、それを見逃さなかったのです。
ちなみに、ドイツの哲学者、マルチン・ハイデッガーも、芭蕉のこの句が大好きだったそうです。
カーヴァーや芭蕉のような天才たちは、「目の端っこでちらっと捉えられた何か」を見逃しません。なぜなら彼らは、そのつつましい存在が、この世界を一変させる可能性を秘めたものであることを知っているからです。
以上、てつさらが、さらっと書きました。