ちょっと前の話になりますが 、M 1グランプリの出演者が審査員を罵倒した動画が流出して結構な騒ぎになりましたね。まあ部外者にとってはどうでもいい話ですが…。それ以外では、審査員だったナイツの塙宣之氏のコメントが的確だったと評判になったようです。
たとえば、「見取り図」というコンビの漫才に対して、彼は次のように発言していました。「好みだと思うんですけども、横の意識しかなかったので、もうちょっと縦のお客さんを意識した立体感が生まれると、もっと点数が上がったかなと思います」

この「縦のお客さんを意識した立体感」というのが何を意味するのか、素人の私にはよくわからないのですが…

先日のブログの記事で書いたことに無理やり引き付けて解釈すると、横の意識というのはその漫才を貫くストーリーで、縦の意識というのはそのストーリーに暴力的に介入する別のストーリー…、と言えるかもしれません。

一つのストーリーをどんどんと深掘りして展開するだけに終始するよりも、そこに全く異質な様子を投げ込んだ方が、漫才として立体的になり、面白さが増すといえるのではないでしょうか。

そのことを考えるとき、私は村上春樹の『スプートニクの恋人』という小説に出てくる、ふたつの孤独な金属の塊が一瞬その軌道で交わる瞬間のことを想起します。

わたしはそのときに理解できたの。わたしたちは素敵な旅の連れであったけれど、結局はそれぞれの軌道を描く孤独な金属の塊にすぎなかったんだって。遠くから見ると、それは流星のように美しく見える。でも実際のわたしたちは、ひとりずつそこに閉じこめられたまま、どこに行くこともできない囚人のようなものに過ぎない。ふたつの衛星の軌道がたまたまかさなりあうとき、わたしたちはこうして顔を合わせる。あるいは心を触れ合わせることもできるかもしれない。でもそれは束の間のこと。次の瞬間にはわたしたちはまた絶対の孤独の中にいる。いつか燃え尽きてゼロになってしまうまでね。

(前掲書より引用)

ふたつの衛星は別々の軌道を描いています。それがたまたま重なり合う瞬間、ドラマが生まれます。そして次の瞬間には、再びふたつは遠ざかってしまうのです。

この箇所の文章は、『Nearly Famous』というイギリスのテレビドラマのワンシーンでも使われています、