てつさらです。

さっきtwitterでもちょっと書いたことですが……

1月15日深夜放送のフジテレビ『さまぁ~ずの神ギ問』という番組で、次のような(以前出された)疑問が解決されていました。

アメリカの学校の卒業アルバムでは、多くの生徒が顔をやや斜めにして写っているそうです(一方、日本の学校の卒業アルバムでは、多くが真正面を向いていますね)。

なぜアメリカではそのような撮られ方をするのか、その理由を解明するのに、アメリカのスミソニアン博物館の写真担当の人に話を聞いていました。

その担当者によると、それは昔の肖像画の伝統を引き継いだものだからだそうです。(そういえば、音楽室の壁に貼ってあったバッハやモーツアルトなどの肖像画も、皆少し顔を斜めにしていましたね)

そのように斜めから描くと、立体的になり、描かれる人の個性、人柄が表現しやすくなるのだそうです。

番組での解明はここまでだったのですが、面白かったので、個人的にネットでもうちょっと調べてみました。

そういう少し斜めを向いた肖像画は、「四分の三正面観」といって、15世紀から16世紀にかけてのフランドル・ルネサンスの時代から起こったものらしいのです。この構図は、人物を自然に見せ、その人の個性や感情が描きやすいそうで、たちまちヨーロッパ全体に広がりました。

つまり、その頃ヨーロッパにおいて、個人の自覚、個の確立が広まったということなのでしょう。

ちょっと話はずれますが……、

カミュの有名な小説に『異邦人』という作品があります。その書き出しはこうです。

きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。-ハハウエノシヲイタム、マイソウアス-これでは何も分からない。おそらく昨日だったのだろう
(新潮文庫/窪田啓作訳)

日本語ではわかりにくいですが、この小説全体は原文では「複合過去」という時制で書かれているそうです。

それ以前の小説では、普通、「単純過去」という時制が使われます。これは、歴史的記述や客観性を重んじる文章に用いられる時制です。(ロラン・バルトはこの「単純過去」を、判決を下された事件の時制だと言っています。)十九世紀の小説は、ほとんどこの単純過去時制で書かれているそうです。

これに対し、「複合過去」は過去の事実と話し手の現在の心理との間に何らかの反響関係がある場合に使われるそうです。つまり、過ぎ去ってはいるがまだ不確定な要素があることを感じさせる時制です。「昨日」か「今日」か「明日」か、というためらい、一種の宙づり状態が、この時制の採用によって、作品全体にわたって維持されているのです。

ヌーヴォーロマンの小説家、アラン・ロブ=グリエは、このことから、カミュの小説においては、世界と人間との間には亀裂が走っている、と言っています。それはカミュ自身が「不条理」と名付けたもののことです。(“世界は不条理ではないし、人間も不条理ではない。しかし世界と人間との間には不条理の関係がある”)

単純過去から複合過去への移行は、世界と人間との安心できる幸福な一体感から、苦痛としての断絶への移行を示しているのです。このような断絶の意識の前では、物語の語り手は、今目の前で起こっていることに対して「私にはわからない」と告白せざるを得ないのです。

このように、カミュのこの小説の斬新さは、内容そのものもさることながら、その使用される時制によっても支えられているのです。

一方、サルトルの小説に『自由への道』という長編作品があります。この小説では、伝統的な小説同様、「単純過去」という時制が使われています。ロブ=グリエによれば、そのため、この小説の主人公は、19世紀のブルジョア的思考の中にしっかり繋ぎ留められていて、決して自由の問題を解決できないのです。

とどのつまり、サルトルは、自由を探し求める彼の主人公が、単純過去時称で書かれる限り、決して自由を見出すことができないということに気がついたらしかった。実際、サルトルが企てた大長編小説『自由への道』は、全体として単純過去で書かれている。そしてそれを読むと、ある奇妙な印象、と言ってもフランス人にとってはきわめてリアルな肉体的印象、すなわち、『自由への道』の主人公マチウは、サルトルが使用する単純過去時称のために十九世紀のブルジョア的思考の中にしっかり繋ぎ留められていて、決して彼の自由の問題を解決できないだろう、という印象を覚える。
(ロブ=グリエ講演 平岡篤頼訳『実存主義からヌーヴォーロマンへ』

いくら『自由への道』の主人公マチウが自由を求めて奮闘しようと、それが単純過去という時制で描かれる限り、十九世紀的な思考の枠組みの中に囚われてしまうため、マチウは決して真の意味での自由をかち取ることはできないのです。(それ故にかどうかは分かりませんが、『自由への道』は未完に終わってしまいました。)

ヌーヴォーロマンとは、要するに…自由の問題は主人公の思考の中に組み込まれるべきではなく、テクストの構造の中にこそ組み込まれねばならないという事実の発見だと言えよう。すなわち、文法とか、語彙とか、文の配列の仕方とか、物語の全体的構造こそが、主人公にとっても、読者や作者にと同様、自由の追求の実験となるべきなのである。
(前掲講演)

私たちが、「自由を希求する」小説を書こうと考えた場合、私たちはつい、自由を奪われた主人公が自由を求めて奮闘努力する…といった物語を創造しがちです。つまり「何を書くか」によって、自由を表現しようとしてしまうのです。しかし、それが、古い小説の枠組みに囚われている限り、真の意味での自由を描くことはできないのです。真の意味での自由を描くには、「どういう風に書くか」「どんな時制で書くか」などををまず考えなければならないのです。

それと同様に……、いくら学校において生徒たちに、個を確立することの大事さ、個として自立することの大切さを教えたとしても、例えば、卒業アルバムで真正面からの写真ばかりが並んだとしたら、もしかしたら、真の意味で、生徒たちに個性のあり方を教えたことにはならないのかもしれません、

以上、てつさらがさらっと書きました。