てつさらです。

良い映画を見分けるための指針というのは幾つかあります。例えば、興行成績というのは、その指針の一つでしょう。お客さんがたくさん入っている映画ほど、良い映画だというわけです。

minitheatre

しかし、いわゆる「ミニシアター系」といわれる芸術性の高い映画においては、別の指針も必要であるように思えます。お客さんがあまり入っていない映画にも、傑作はあるのです。

そこで、蓮實重彦氏が世界中の有名監督にインタビューした『光をめぐって』という本を参考に、良い映画を見分けるための指針について書いてみたいと思います。

この本は、当代随一の映画批評家といってもいい蓮實氏が、ジャン=リュック・ゴダール、テオ・アンゲロプロス、ビクトル・エリセ、ベルナルド・ベルトルッチ、ダニエル・シュミット、ヴィム・ヴェンダース、侯孝賢、ジム・ジャームッシュという、そうそうたる映画監督たちにインタビューを行った記録です。

この本の奥付を見ると、初版は1991年8月。映画にまだ十分元気があった時代、かつ蓮實氏が映画評論家として最も脂ののっていた時代に刊行された本です。

(以下、一段下がった部分は、全て同書からの引用です)

 

■作品の長さが90分である

蓮實:処女長編の『勝手にしやがれ』から最新作の『ゴダールのリア王』にいたるまで、あなたの作品のほとんどは、ほぼ一時間半という長さにおさまっています。ジャン=リュック・ゴダールという監督の特質は、現代ではきわめて稀になった「九十分の作家」だといえるでしょう。『気狂いピエロ』が例外的に一時間五十二分、『男性・女性』もほぼそれと同じ長さですが、残りの作品のほとんどすべては、少なくとも商業的な公開を目的として撮られたものは、計ったように正確に九十分という上映時間におさまっています。あなたが、一時間半に執拗にこだわっておられるのは、理由もなく長くなってゆく最近の映画全般に対する批判がこめられているのでしょうか。

蓮實:それはまさしくその通りで、私も長い映画は大好きです。ただ、いかにも中途半端で、何の理由もないのに二時間とか二時間十五分の映画を見せられるのはやりきれないということなのです。偶然とはいえ、あなたの映画は二本とも一時間半だった。いま、一時間半の映画を取れる作家はあなたとゴダールぐらいしかいません。

エリセ:たしかにゴダールは、上映時間に関してはたいそう厳密な作家です。古典的な作家たちもそうでした。ブニュエルは、いつでも問題ばかり起こしているようですが、この点に関しては実に厳密な配慮を示しています。

 

■ホテルが舞台に設定されている

蓮實:映画撮影に独特な工場と家庭との幸福な調和という点からして、あなたの作品の部隊装置の多くがホテルであるということはどうお考えたらいいでしょう。『カルメンという名の女』も『ゴダールの探偵』もホテルが特権的な空間をかたちづくっていますし、『ゴダールのリア王』も『パッション』もそうです。そもそも処女作の『勝手にしやがれ』が安ホテルの一部屋を舞台としていましたし、『アルファヴィル』など、まるでパリのグランドホテルが撮影所のセットのように使われていました。

ゴダール:(中略)20世紀初頭の偉大な小説家や書簡作家や作曲家などは、いずれもホテルに暮らしていた。

蓮實:あなたがよくホテルで撮影されるのは、そこがあなたにとっての亡命の地というか国籍離脱の可能な場所だからではないでしょうか。

ゴダール:それはありうる。大いにありうることだ。

 

デジタルサラウンドの音の付け方が風変りだ

蓮實:あなたは『ゴダールの探偵』で初めてドルビーを使われましたが、およそスペクタクルとは無縁の『ゴダールのリア王』の音響スペクタクルには圧倒されました。

ゴダール:戦車が近づいてくると戦車の音が大きくなって画面を横切るといった退屈で単調なドルビーの使い方にはうんざりさせられていますから(笑)。そういうことを平気でできる連中は、ごく単純にいって頭が悪い。子どもなんです(笑)。

 

■登場人物が何も演技をしていないように見える

アンゲロプロス:…ところが、よく見ていただければわかる通り、少女は多くの場合、緊張で震えながら演技をしています。それを演技していないとどうしていえるのでしょうか。演技とは台詞で述べていることを身振りでなぞることではない。私の映画的な体験からしても、アントニオーニだってロッセリーニだって、そんな演技はさせていない。(中略)

蓮實:映画にあっては、何もしていないかのように見える瞬間に最も高度な演技が行われているという当たり前の事実が忘れられ始めているのでしょう。

 

■監督が近眼である

ヴェンダース:それは私が強度の近眼で、床屋で眼鏡をはずすと、もう目の前の鏡に映っている顔がまったく識別不能になってしまうからです(笑)。

蓮實:ああ、偉大な映画作家は、やはりみんな近眼なのだ。フォードも、フリッツ・ラングも、そしてあなたも(笑)。

 

■クローズアップの使用に極めて慎重である

ヴェンダース:…ところが、いざ編集してみると、われわれ二人ともその超クローズ・アップにはどうしても納得できなかった。そこで、最後の最後までクローズ・アップなしの編集が行われていたのです。しかし、クローズ・アップを使うべき場所はここしかない。この距離で向かい合った二人の顔を、どうしても正面から示したかった。そこで、それぞれの 顔を一回ずつだけ、クローズ・アップで編集に加えたのです。
今でもこのクローズ・アップを見ると、ショックを覚えます。こんなことをしたためしはなかったからです。また、二度とこんなことをすることはないでしょう。しかし、ここでは状況がそうした撮り方を要求していたと思います。というより、許されるべき状況があったというべきでしょう。しかし、ああしたクローズ・アップの構図=逆構図による切り返しショットには、どこか偽のような感じがつきまといます。ほとんど、テレビドラマの世界のようです(笑)。映画でこんな事をしてよいのだろうか…。

蓮實:いや、見ている側としては、むしろあなたがここで聡明にもクローズ・アップの構図=逆構図を避けてしまうのではないかという事の方が心配でした。私にとっては、慎みを欠いた振舞いとしていつものあなたのならやらなかったはずのクローズ・アップを、あえて、というか、いや、むしろ堂々と実行されたことに深い感動を覚え、思わずブラボーと心の中で叫んでしまいました。

ヴェンダース:ああそれはよかった(笑)。

蓮實:最後に、技術的な問題をちょっと伺いたいと思います。これまであなたの映画で一度も使われたことのないクローズ・アップについて、あなたがどう思っておられるのかを話していただけますか。

ジャームッシュ:クローズ・アップという技法は、一般に、人物の顔なり特別なディテールなりを美しく強調し、サスペンスを高めるものとして使われうるものです。しかし、私は、自分の映画でクローズ・アップを使うことを二つの理由で避けています。第一の理由は、観客に向かって、直接これが重要なポイントだということを指し示したくないからです。第二の理由は、私がキャメラというものに主観性を帯びさせたくないということがある。クローズ・アップは、普通、ある人の個人的な視点によるショットとか、リアクションを示すショットになりがちです。私のスタイルは、そうした主観性を排し、客観性を保持したいのです。

 

■列車内のシーンでは、主人公は進行方向に背を向けるかたちで座席に座っている

蓮實:あなたは『まわり道』や『さすらい』などで、よく、作中人物を列車の窓ぎわに座らせていますが、しばしば、進行方向に背を向けたかたちの配置になっています。そして『パリ、テキサス』のこの庭先のシーンでの飛行機の着陸の方向を見ながら、あ、人物の配置がよく似ているなと思ったのですが。

ヴェンダース:たしかに、そうですね。トラヴィスは子供のような心に戻っていて、子供はよく、進行方向に背を向けたがるからでしょう。

(↑この最後の指針には、補足が必要かもしれません。要は、その作品の登場人物のおかれた状況や、その人物がどういう方向に進もうとしているかといったことと、その人物がどういうスタイルやポジションで列車の座席に座るかということとは、密接に関連している、ということです。)

 

いかがだったでしょうか?

上記の7つの指針のうちのいくつか(独特なサウンド処理、過剰な演技の排除、クローズ・アップへの躊躇…)は、テレビ的な演出への反対表明と言えるでしょう。

映画館の大画面で集中して見られる映画に比べて、家庭のテレビは画面が小さく、かつ、ながら見されることがほとんどです。それを補うためにとられたテレビ的な過剰な演出が、徐々に映画を侵食しつつある。この本における良い映画とは、そのようなテレビ的演出へのアンチテーゼだと言えるかもしれません。(もちろん、それだけではありませんが…)

この指針を知っていれば、ちょっとしたシネフィル(映画通)を気取ることができるかもしれません。たとえあなたが、映画を、年間10本くらい(それもDVDで)しか見ない人だとしても…。

以上、てつさらが、さらっと書きました。